自由の苦しさ

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   私たちの小さいころは、まだ日本全体がそんなに裕福ではなかったので、親たちも子供に十分なことをしてあげられなかったのだと思います。子供のころは、 「大人は自分の都合を押し付けてずるい」と思うこともありましたが、それは、子供たちにしてあげられないもどかしさだったんじゃないかと、昔よりも少しだ け裕福になった今思います。
 「大人になったら 腹いっぱい たこ焼きを食ってやる」とか「大人は自由だから なんでも自分の思うとおりにできる」と勘違いもしていました。
   話は変わりますが、私は3年前まで、囲碁も将棋もまともにできませんでした。子供がやってみたい ということで、囲碁と将棋を始めました。将棋は今でも続けていて、息子は、アマ2段クラスの実力があります。
 今回は、途中で辞めてしまった、囲碁の感想を、なぜか今日思い出したので書いてみます。

 囲碁を始めてしたときに驚いたことは「どこに打ってもよい」ということです。将棋 (別に見下しているわけではなく、私自身は将棋の方がすきですし、それぞれ高度な面白さがあります。システムの違いと受け止めてください)は、最初駒の配 列が決まっています。また、初手のパターンも角道をあける、飛車をつくなどがあります(もちろんその後はおもしろいように変化しますが)。
 いざ、囲碁板に向かって、碁石を打とうとすると、この「どこに打ってもいい」ということは「どこにも打てない」ということだと気づきました。瞬間「自由 とはこれほど苦しいものか」と感じました。

 すっかりおじさんになりました。つまり、昔、子供のころ考えていた大人です。確かに子供のころに比べれば自由になりましたし、たこ焼きも食べたい ときに食べることができます。

 また、経営者となり、極端な話をすれば、私の権限で、会社のお金は自由に動かせます。しかし、それができない自分に、事業を行えば行うほど出会い ます。

 しっかりと、どこに打ってもいい、碁石を、しっかりと打ち込める人間になりたいと、今日、何かのひょうしに思い出しました。

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このページは、宝徳 健が2006年1月26日 22:51に書いたブログ記事です。

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