出光興産の理念

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  引き続きシリーズで書いてまいります。何度も申し上げますが、昭和37年に書かれた本です。私が社員のとき、社内で、出光理念は言葉が古いので、現 代でもわかるように書き換えたほうがよいという議論が起きました。よく勉強していない証拠です。この理念は人間の理念であって、単なる企業の理念ではあり ません。仏教やキリスト教の教えを古いというでしょうか?
 非常に残念な発言だったと思います。佐三翁は、創業10年で作り上げた出光のあり方は、未来永劫変わることはないと断言しています。
 これを実現していないことは、要は、人たるを追及することから逃げるために、単なる楽な「手法」を選択してしまうこともあるのかもしれません。人間だか ら仕方が無いのかもしれませんが、人間だからもったいない。人の批判ではなく、もう一度、佐三店主の教えを学ぶことによって、自分自身を見直したいと考え ています。

 今回は、p18~p32「労働組合のない会社」です。長いから、一度で書けないかも。

労働組合のない会社

 昭和三十五年三月二十九日の朝日新聞は「骨肉で争う三池の対決」という大きな乱して、次のように報じています。
 「生産再開第一日の二十八日、三井三池の各鉱で起こった流血騒ぎは、いまさらのように三井争議の重大さを世間に訴えた。組合の分裂後、父母兄弟が別れ別れとなり、憎しみ合うぎりぎりの姿は頂点に達している」

 総資本と総労働の対決といわれ、暴力団の殺人事件まで介入し、文字通り、骨肉地で洗う惨状を呈した三井三池の争議を見るにつけ、
 「経営者といい労働者といい同じ人間であることに変わりはないのに、まして、同じひとつの会社の中で働くものがどうして、そんなにまでして対立闘争せねばならないのだろうか」
 「資本家や経営者と労働者とはどうしても折り合いのつかない、無縁の存在なのであろうか」
 「いったい労働組合とはどんなものだろうか」
というような疑問を多くの人が抱いたと思います。

 それに対して「労働組合が共産主義革命を目指している」とか「経営者が放漫経営をして、自らまいた種を刈っている」とか、いろいろ批評なり非難が、連日新聞雑誌紙上をにぎわしたものです。

 ここで、三井三池争議の原因を分析検討するわけにはゆきませんが。考えてみれば、戦後日本の産業界は、労働争議・ストライキの連続であり、今日では、労働争議は単に一企業だけの問題ではなくなり、なかには社会問題にまで発展するものもあります。

 経営学においてはインダストリアル・リレーションズの問題がやかましく論ぜられて、今や企業経営における労働組合の占める比率はかつてないほど非 常に大きくなってきました。かかる現状を見るとき、私たちは、出光五十年の体験から得た労働組合の生むまたはあり方についての確固たる信念を、広く一般の 方々に紹介し、大方のご参考に供したいと思うのです。

 さて表題に「出光には労働組合がない」ということを掲げていますが、ここで労働組合無用論や労働組合否定論を唱えるつもりはありません。

 私たちは、労働組ありが、労働者、会社従業員の労働条件の改善改良等、その今日まで果たしてきた役割を考えるとき、プラスの面も非常に大きかった し、その正当な業績評価には決してやぶさかではなく、その存在意義は十分求めなければならないでしょう。しかしながら他面において、戦後、現在までの労働 問題なり労働争議を見てきて、経営者も労働者も、何か一番根本的なものを忘れて、空回りしているような幹事がすることも否定できないわけです。

 そこで、そうしてそんな空回り、というような感じがするのか、根本的なことはいったい何かといったことを、ここで探ってみたいと思います。

 その間に、組合の発祥について面白い話しがあります。

 イギリスにおける組合(職能組合)の発生は酒場であったと言われています。同じ町に住み、同じ仕事に携わっている労働者が一日の疲れをいやすため に待ちの酒場に集まり、日毎の苦楽を語り合う交際のなかから友情が芽生え、病気や事故のあった仲間のために見舞金を出すという習慣が、やがて、恒常的な 「友愛組合」に発展し、労働組合の母体になったと言われています。

 それはそれとして、労働組合というものが、一般的にどのように考えられ、説明されているか、簡単に見てみますと、シドニー・ウェッブは、かの古典 的な名著「労働組合運動史」の序文において、「労働組合とは、ちんちん労働者がその労働生活の諸条件を維持または改善することを目的とする恒久的な団体で ある」と定義づけています。

 このウェッブの定義に対して、しばしば対置されるものに、マルクス、レーニンの労働組合に関するいくつかの定義があります。これらの労働組合論 は、要するに、労働者の生活の抜本的な改善向上のためには、資本主義社会内部における部分的改良ににとどまらず、すすんで資本主義社会を変革し、社会主義 社会の実現をはからねばならないとする思想に出ていることは、ご存知の通りです。

 このほかにも労働組合の低はいろいろありましょうが、その根本思想は、資本主義社会の労働者は自分の「労働力」を売ることによって、自分とその家 族を養ってゆかなければらない。この場合人間の「労働力」が賃労働としてひとつの商品となり、賃金労働者が商品化した自己の労働力を資本主義的商品とし て、労働市場において取引する。したがって、個別契約によっては労働者が不利益となるので、団体取引による労働協約によって、労働力をできるだけ多角販売 する条件を確保しなければならないということになっています。

 敗戦後、占領政策の一環として制定された日本の現行労働法もこのような考えをその基礎としていますが、その中の労働組合法第一条に、労働組合の目的として、次のようにうたっています。
 「この法律は、労働者が使用者との交渉において対等の立場に立つことを促進することにより労働者の地位を向上させること、労働者がその労働条件について 交渉するために自ら代表者を選出することその他の団体行動を行うために自主的に労働組合を組織し、団結することを擁護することならびに使用者と労働者との 関係を規制する労働協約を締結するための団体交渉をすること及びその手続きを助成することを目的とする」
と規定しております。
 以上述べた一般の考え方を要約すれば、
①近代的企業において人間が働くことが「労働力」という商品を売るというふうに考えられている。
②労働者はつねに資本かなり経営者より圧迫されるもの、すなわち、労働者とは経営者とは本質的に対立関係にあること
③労働者は、自分たちの労働条件を引き上げるためには、団結して組合をつくり闘争なり交渉をする以外に方法はないということ

というようなことでい言いあらわせれるのではないかと思います。

 労働者を弱き者として保護するということは、資本主義の発展段階において、労働者が雇い主の一方的な意思に不当に屈従させられたかこの歴史的事実 や経験よりして、社会的に必要なことであり、国家が法律的援助を与えることも意味のあることと考えられますし、また労働組合という携帯で、資本化経営者の 我欲専制に対抗して、同窓者の生活を引き上げてきた過去の業績は、最初に述べたように高く評価しなければならないと思います。しかしながら、過去において 歴史的に意義のある面を持っていたということが、そのまま将来につながるといういうわけになゆきません。

 資本主知の現段階において、というより人間の歴史の現在において、今までどおりの労使関係の考え方ならい、働くことに対する考え方でいってよいものかどうか、渡して知は大きな疑問を持つわけです。もっと異なった考え方なり把握の仕方があるのではないか。

 ここにいたって私たちとしては、たまたま出光興産が創業以来五十年やってきたことが、その新しいほうこうなり考え方に何らかの示唆を与えるのではないかと考えるわけです。
 
 出光には創業以来五十年、労働組合というものがありません。

 あるいは世間にも、少人数でやっておられるようなところには労働組合がないところがあるかもしれませんが、全従業員すでに6000人に達し、 7~800人の従業員が昼夜を分かたず、働いている徳山製油所のごとき近代的オートメーション工場を持って、しかも労働組合がないところは、あるいはあま り例がないのではないかと思います。

 それではどうして出光には労働組合がないのでしょうか。

 世間では、出光に労働組合がないのは、会社が圧力をかけて組合をつくらせないのだと批評している向きもあるように聞いています。はたして出光に組 合がないことは、会社がつくらせないのか、あるいは従業員がつくらないのか、また、もしつくらないとしたらどうしてつくらないのか。こういったことを先に 述べた労働組合に対する一般の考え方の要約と対比しながら、その真相を探ってみたいと思います。

 まず第一に、企業において従業員が働くことは労働力という商品を売ることだという考え方に対して、出光ではどのように考えているのでしょうか。

 出光に入社してまだ十ヶ月にしかならない一新入社員は、視点生活の感想文の中で次のように述べています。
 「人間尊重がいかなるものであるか、この実態を目の当たりに見たわれわれにとっては、黄金の奴隷たりえようがない。人間尊重を肯定する以上、黄金の奴隷 たることは当然否定される。われわれは、日々の糧を得るために働くのではない。勤労は我々人間の使命である。学生時代に学んだ"賃金とはエ労働の提供に対 して支払われる報酬である"という経済理論は、今では信念の上から否定する。我々は労働を売っているのではない。卑近な例であるが、単に労働を売って賃金 を貰うという考え方からすれば、私はもっと高く買ってくれるように要求するであろう。考えるまでもなく、"労働力を売る"という観念を持つことは、同時に 自己の人間性を否定することでもあり。すなわち、単なる商品、機会の類と自己の存在を同列に置くことになる」

 これは自分の仕事をとおしてつかんだ貴重な体験であり、信念であります。

 そして、ここで注意していただきたいのは、この新入社員の感想自体もさることながら、彼がこのような信念を入社後わずか十ヶ月足らずでもつようになった場所が出光の地方の支店・出張所生活においてであり、毎日の仕事の中からであったということです。

 出光の地方の支店・出張所は消費者に直結する最先端であり、そこは毎日がただ仕事の明け暮れであるような忙しさであり、特別に精神教育や講義が行 われる余裕はとてもありえないはずです。そうすればおそらく、この社員は先輩社員と一緒に働き生活を共にするうちに、知らず知らずこのような考えを肌から 感じとり、自分のものとしてつかんでいったものと想像されます。

 換言すれば、この一青年社員をしてこのような感想を抱かせる雰囲気が支店なり出張所にあったということであり、先輩社員の多くがすでにそのような考え方で働き、かつ生活していたということができるわけです。

 それではどうしてそのような雰囲気が出来たのかということになりますが、これは一朝一夕に形づくられたものではなく、五十年の出光の歴史を通して 自然に出来上がったものであります。要するに出光の事業は金儲けのためのみの企業ではなく、出光の仕事を通じて社会のために貢献し、公共のために働いてい るのであるという事業観や、人間は元来働くことに喜びを見出すものであり、さらに働くことが人間の使命であるとする人間観、したがって給料は生活の保障で あって働くことに対する報酬ではないとする出光の給料に対する考え方等、これらの出光における伝統的精神がこのような雰囲気を作り上げる要素となっている わけです。

 このように出光の考えからは、働くことを労働力の切り売りだとする考えは出てきません。

 次に、労働者と経営者は本質的に対立関係にあるということについては、出光はどうでしょうか。
 そのまえに、世間一般に労使の対立といわれることについて考えてみますと、最初、労働組合が資本化に対抗して結成されたころは労資の対立と言われてきま した。ところが、いつのまにか資本家の「資」が使用者の「使」となって、現在では「労使」の対立といわれるようになっています。これはおそらく、戦後、日 本における経済事情の変革、所得分配の公平化等によって、資本家とか、いわゆる金持ちとかがだんだん存在しえなくなり、それと同時に国民大衆が比較的均等 に富を所有するようになったきたことや、経営学でいう「資本と経営の分離」等の事情によるものと思われます。したがって、いまかりに「労資」の対立という 言葉を使って、「資」を株主の資本家と仮定しても、現在では小数の資本家ではなく、大衆が株主であり、資本家となっているのですから、これは大衆の内輪喧 嘩か、あるいは、労働者が自分自身と闘っているようなことになります。一方、現在使われている「労使」の対立の場合を考えてみれば、昨日まで組合員として 積極的に会社と対立闘争していた人が、地位の昇進することによって今度は使用者側となって、かつて共に闘争してきた人に対して逆に闘争するというのが実情 のようです。

 こう見てくれば、「労使」といい、「労資」といっても、その実態はなんら本質的な区別はなく、まして昨日の友は今日の敵のごとき状態が現実であれ ば、対立闘争する理由はどこにも見当たらず、はたして何のために闘ったいるのかわからなくなります。ただ闘わんがために闘っているのが真相ではないでしょ うか。

 ところで、出光の場合を考えてみますと、出光の企業としてとっている株式会社の機構上よりみれば、株式の大半を持つものが出光社長であり。した がって出光社長は資本家であり、かつ経営者であるということになります。資本と経営の分離がいわれる今日において、このような資本化経営者であることは、 先に述べた一般的な考えからすれば、まさに「労資」の対立として資本家と労働者の対立が最も典型的に現れる恰好の場所であるということができるかもしれま せん。

 ところが、その実態はどうでしょう。まったく反対に出光においては、このような資本家と労働者、経営者と従業員という対立の一かけらもありませ ん。五十年の出光の歴史の中において、何か両者の間に対立とか闘争といった問題が起こったということは、一度もありませんでした。

 それはいったい、なぜでしょうか。

 「学生時代を神戸で過ごした関係上、大阪のいわゆる資本化の態度には相当の反感を持ったのであります。資本家に屈服するものかと固く決心したのであります」
 これは出光社長の「我が四十五年間」の中において出光創業の時の考えを述べた一文ですが、この青年時代の決意が、経営者としての出光社長を支え、そのバックボーンとなって今日まで続いてきていると見てよいと思います。

 その事実を裏づけするものを列挙すれば、数多くあります。その中で一、ニを紹介すれば、まず、出光社長が出光商会の個人商店時代より、給料をとっ てきたことです。現在のごとき株式会社ならいざ知らず、命じの末期より自らは店主でありながら給料をとって生活をしていたということは、当時としてはまさ に異例のことであり、私生活においても社員と苦楽を共にする姿をよく現していると思うのです。

 またこのようなこともありました。
 「数年前のことでありますが、ある無産党の人から大勢の前でこういう話を聞きました。東京労働総同盟本部から先年九州に労働争議を起こしに行ったことが ある。そのときに、出光商会の内容を調査した結果、店員の待遇法その他のやり方が本部からみて理想的である。ああいうふうにすべての資本家がやってくれれ ば何もいうことはない。むしろ本部の希望以上のことをやっている。資本家の模範となっている。と語って、店の内容を詳細に私に説明されたことがある。私も いつの間にか資本家になっているのには苦笑しました」(出光社長)

 このように資本家に反抗して出光商会を創設し、自らいわゆる資本化になることを最もきらった出光社長の経営者としての生き方からすれば、出光にい わゆる資本化がそんざいせ存在せず、それゆえに資本家と労働者という対立がないのは当然かもしれません。そして出光にあるのは対立の代わりに、出光社長の 母のごとき愛情と、社員の一人ひとりが経営者であるという仕事に対する強い自覚、そして社内全部の人間的信頼です。

 このような出光の現実から見れば、経営者と従業員の間は本質的対立関係にあるものでは決してないことがはっきりいえます。常識的に考えても、ひと つの企業の中で苦楽を共にするものが、経営者と労働者は本質的に対立関係にあるなどといって争ったり、なかには争うこと自体が目的であり年中行事みないな 恰好になっている姿は、まったく珍妙なことであり、まさに現代の喜劇としか思われません。

 第三に、労働条件を引き上げるためには、はたして労働者が組合をつくり団結して交渉なり闘争する以外に方法はないかということですが、出光五十年 の歴史において、労働条件や待遇改善等で従業員と経営者間に交渉が行われたりしたことはなく、まして争議、闘争がおこなわれたことはいまだかつて一度もあ りません。

 こういえば、出光の従業員は何か無気力で、経営者の言いなりになって働いていると皮肉られるかもしれません。また、争議をしないでもよいほどに給与その他労働条件がよいのだろうといわれる方もありましょう。

 しかし、そのいずれも当たっていないようです。

 すなわち、出光の従業員は無気力で経営者の言いなりになっているのではないかという疑問には、出光の従業員が仕事に対してみせるがめついまでの闘 魂を見ていただければ、無気力どころかまさにその反対に気力横溢していることは一目瞭然です。ただ出光の従業員はその気力を自己の労働条件の引き上げ等内 部の対立闘争的なものには向けず、社会・国家のために向けているということです。

 もちろん出光の社員とて給料を余計に貰って裕福な生活をしたいとか、いろいろ個人的な欲望は多く持っておりますが、それはあくまでも働いた後の結果の問題であって、それらは闘争に気力を入れて勝ち取るようなものではないと思ってます。

 さらに、出光の給料その他労働条件が特別にずばぬけてよいかといえば、もちろん現在の労働条件は、あるいは一般水準をやや越えたものまもしれませ ん。しかしながら、このような高いとかよいとかいうことは、比較上の問題であって、私たちはそのような表面的な事象の底に流れているものを見ていただきた いと思うのです。というのは、給料の多寡だけが問題となるならば、終戦後十年にわたる出光の言語に絶する耐久苦難時代において、従業員が見せた一致団結は どう理解すればよいのでしょうか。それは決して単に労働条件などによって規定されるべきものではありませんでした。常識的に考えれば、まさに組合の闘争と か争議がはなばなしく活躍してしかるべき時代に、出光の従業員は従来にも増して全社一致団結して仕事に励んだわけです。

 出光の労働条件は現在までがそうであったごとく、将来も決して闘争と交渉によって生み出されてゆくようなことはなく、経営者も従業員も、みなが信頼一致して働いているうちに自然に定まってゆくということになります。

 以上、組合ができる原因とも考えられる三つの点について、出光の実態と対比してみたわけですが、出光にはこれらのいずれの点においても相違し、当 てはまらないことがわかります。そうすれば、出光に労働組合がないことはまったく自然なことであり、当然であると結論付けることができるようです。

 それでは、このように組合の成立要件を成立せしめず、出光という一企業を一致融和して発展してゆかせるものは、いったい何でしょうか。

 私たちはそれを相互信頼と呼んでいます。そしてこの相互信頼が出光にあるわけです。

 なぜ、このような相互信頼ができたかということになれば、これもやっぱり出光創業当時、イで見る社長が入社してくる若い社員を見て、母親に代わっ て育てようと思ったその愛情が根本になっています。この母の愛がやがて出光の古い社員に体得されて、出光車内に数多くのお母さんが出現することになって、 それらの愛情に包まれながら融和一致して発展してきたのが出光五十年の姿であります。この母の愛があるところに対立や摩擦の起こりえようがなく、親の子に 対する愛情と子の親に対する信頼が自然といつも間にか出来上がってしまっているのです。そしてこのような雰囲気に包まれた出光においては、経営者と労働者 という区別さえなくなり、出光に働くすべての者は経営者であるという意識にまでみなが高まっています。

 ここで、出光にとってひとつの大きな収穫とも考えられている事実を紹介しましょう。

 七・八年前、出光の室蘭輸送書に国鉄をレッドパージになった人が入社してきて、労働組合を結成したことがありました。出光では労働組合をつくるこ とはまったく自由であり、何一つ圧迫や分裂工作が加えられたわけでもないのに、結成後二ヶ月を出でずしてその指導者が「出光には労働組合をつくる必要がな い。取り下げてもらいたい。このようなことになったのは私の責任でありますから私をやめさせてほしい。しかし他の人が傷つくようなことはしないでくださ い」と自らの浅慮をわびてきたのです。その後その人は立派な社員となり、現在責任ある仕事をもって働いています。

 もし労働組合らしいものがあったとすれば、半世紀にわたる出光の歴史の中で、後にも先にもこれが唯一のものとなるのではなかろうかと思います。し かし、なぜ出光には労働組合の必要がなというような言葉が出てきたのでしょうか。いろいろ理由も考えられましょうが、やはり今述べた、出光の車内における 母の愛より出来た相互信頼と言うことによるものと思います。

 以上、出光の実態を紹介してきましたが、私たちは、出光におけるこのような姿なり、考え方が、みなの人が求めているものであり、労働組合の今後の方こうなりあり方について、経営者も労働者も、このあたりに何か汲み取っていただけるようなものがありはしないかと思います。

 イギリスにおける組合の発生が酒場であったということは、単なる歴史的事実としhて書いたわけですが、人間的な友愛から出発してという事実は考えさせられるものがあるのではないでしょうか。

 なお、相互信頼というが、信頼できない経営者や従業員の場合はどうするのかとか、またすでに労働組合が出来て労使の関係が対立しているような場合はどうしたらよいのかという問題も出てくると思いますが、それについて出光社長が語っている言葉を引用しておきましょう。

 「一般的に言って、人間の矛盾性を発揮しうる立場にある人、言い換えれば強い立場にある人が対立闘争の種子を撒いたことはあきらかである。労働組 合が出来るのも、だいたいのいいて最初強い立場にあった資本家の横暴搾取がもとであり、現代では経営者個人のわがまま、無理解が種子である。善意の資本家 や経営者がそのとばっちりを受けているが、これらの会社では立派な労働組合が存在しているのである。ところが、また組合が出来てからは、その後のかたしっ は組合が強くなって矛盾性を発揮して強い立場となり、事業の本体を忘れて横暴わがままをなしているのをたくさん見受ける。したがって、まず強い立場にある ものが譲ることが解決の方法である。権利思想の外国では、ゆずることが権利の放棄であり、罪悪であると思っているからなかなか解決できない。しかし、互譲 互助の伝統道徳をもっている日本人にはこれができるのである」

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このページは、宝徳 健が2006年11月 3日 16:51に書いたブログ記事です。

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