親父の誕生日(6月30日の日誌)

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   ルーティンは完結。握手は、0回。累計2848回。
 今日は、「親父シリーズ」に掲載しています、私の親父の80歳の誕生日です。昭和2年7月1日生まれ。傘寿です。母は、平成7年7月10日に62歳で亡くなっています。
 昔は、恐くて恐くてしかたがなかった親父ですが、今はとても丸くなっています。がんこさはあまり変わりませんが。
   予科練の松山航空隊で終戦を向かえ、母と大阪で結婚しました。勤めていた会社が、大会社と合併するとき、次々と弱い社員が辞めさせられていくのをみ て、自分も自ら退職しました。そして、静岡へ。ここでは、我が家では、ほとんどなかった、少しだけ経済的に恵まれていた生活をしました。母が体を壊し、故 郷の九州へ帰りたいと申し出た際に、子供たちと別れて暮らすのはできないと、経済的に恵まれた生活を捨てて、一緒に九州へ。詳しくは知りませんが、そこで は、ほんとうにどん底の生活になりました。その後、実力が認められて、東京へ。退職後も、いろいろな会社からの誘いがありました。生活が安定したのはむし ろ退職後、いろいろな会社に誘われてからです。その矢先、母が亡くなりました。
 母の葬式で、父は、参列者に「とんでもないことをしてしまいました。申し訳ございません」と頭を下げました。この一言で、姉や妹は、父が母にかけた苦労を許したのだと思います。

 我が家は経済的にはとても貧しい生活をしてきましたが、一度も心の貧しさを味わったことがありません。また、私の行動や決断には、一度も意見を述 べたり、意義を唱えたりしたことがありません。進学も就職も結婚も、すべて自分の判断でした。暗に「自分で決断し、自分で行動し、自分で責任をとれ」とい うことを教育されたのでしょう。危険な遊びをしても、一度も叱られたことがありません。「男の子は、その日のうちに生きて帰ってくればそれでいい」が両親 の方針だったようです。

 中学生くらいまでは、あまり話した記憶はありません。むしろ「なんで、お母さんがこんなに苦労するのだろうか」と思っていました。高校生になってから、いろいろな話をしたような記憶があります。

 まあ、なんにせよ、健康で長生きしてくれているので感謝しています。今月の母の法要で会えるのが楽しみです。この前孫(私の甥)に子供が生まれま した。その子が大きくなったら飲むそうです。私の子供の子供とも飲みたいそうです。150歳まで生きるそうです。こっちがもつかどうか。私の目標は108 歳ですから。

【昨日の私】
朝ごはん:ホテルの洋食バイキング。おいしかった。
昼ごはん:鹿児島空港で、黒豚ひれかつ定食。おいしかった。
夜ごはん:鹿児島で買ってきたさつまあげと黒豚丼、焼酎も。おいしかった。

 鹿児島から中部国際空港へ。帰ってきて、今後のことをいろいろと考えていました。もっと気合入れないと。もっと自分に厳しくしないと。あっ、それと、「梅シロップ」漬けました。「砂糖版」と「はちみつ版」1ヶ月くらいかな。梅がくさりませんように。楽しみ。

【今日の私】
 大阪事務所に移動してFさんと打ち合わせ。その後、たくさん仕事します。
 あ~、自分の未熟さをなんとかしなければ。もっともっと、仕事したい。自分を鍛えたい。

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このページは、宝徳 健が2007年7月 1日 04:29に書いたブログ記事です。

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