母の命日(7月9日の日誌)

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   ルーティンは完結です。握手は、8回。累計2962回。
 今日、7月10日は、母の命日です。宝徳 汎子(ひろこ) 享年62歳。平成7年7月10日でした。
  意識がある母を見たのは私と妹が最期でした。会社を早めに終わって、病院にいくと、けいれんを起こしながら、息も絶え絶えの状態でした。そんな状態 なのに、私を手招きしてこう言いました。「いつも、忙しいのに、きてくれてありがとう」。私「人のことよりも自分のことを考えて!」。その後、ICUに入 りました。父と交替でICUの外のソファーで寝泊りしました。そして、7月10日の朝2時頃、父から「健、すまん、だめだった」と電話が入りました。その 時私は、東京都大田区久が原に住んでいました。すぐに、柏に住んでいる妹を拾って、都立大塚病院に行きました。霊安室に横になっている母の姿を信じること ができませんでした。霊安室に一人男の人が。誰だろうとおもっていると葬儀屋さんです。いきなり「私どもでやっていただけるのでしたら・・・」の説明。蹴 りいれようかとおもいました。病院関係者は霊安室に来ませんでした。担当医など、どのシーンにも現れませんでした。当直医が、父を外に呼び出して「今後の 医学のために、解剖してもいいか」と問いました。父は、「子供たちの判断に任せる」と言って、私と妹に相談に来ました。即座に、「長い間、手術ばかりで切 り刻まれてきたんだから、死んだ後まで切ったらかわいそうだから」と拒否しました。病院側の対応とはこんなもんでしょうか? 担当医が来なくて、当直医が 非人間的に解剖を申し出てくる。死んだら、すぐに葬儀屋に連絡を入れている。妹の「あんまりだ」と言って泣きじゃくっている姿が今でも思い出されます。

 母は、強い人でした。三十数年間も重い病気を患い、入退院・手術を繰り返しました。あれほどの病気だったのに、よほどのことではない限り、「痛 い」という言葉を聞いたことがありません。家事も重い体を引きずりながらやっていました。手伝おうとすると「私の仕事。あなたにはやるべきことがあるは ず。それに、動かないと動けないようになってしまうから」と拒否します。

 いつも他人のことばかり。「私がみんなの病気を全部引き受けているから、家族のみんなが健康なのよ」とよく言っていました。苦しかったろうな~。 最期の入院は、子供をつれて、実家に遊びに行っているとき、夜、トイレに行こうとして、ベッドから落ちて両足骨折しての入院でした。外科の入院なのに、体 調が悪くなって、亡くなるなんて、いったい病院は何をやっているのでしょう。親父と妹は事情説明の手紙を書き続けましたが、院長からのらりくらりの返事ば かりです(手紙の中に訴訟は起こさない。事情だけ説明してくれと書いていても)。担当医は一切出てきませんでした。何の連絡もなし。

 実は、母は出光興産の先輩です。ただの先輩ではなく、あの有名な日章丸事件に深くかかわっています。日章丸がアバダンで油を積んで帰ってくると き、イギリスの軍艦、ローズマリー号が、日章丸を拿捕せんと、追い掛け回します。日章丸から打電すると位置を補足されますから打てません。日本からの打電 も暗号です。母はタイプができたので、その時、狭い部屋に押し込められて、日章丸に暗号電文を打ち続けたそうです(疲労で倒れたそうです)。母が亡くなる 前、日本国中から出光に来た激励電文をコピーして持っていきました。「私の人生、無駄じゃなかったね」とボソっと言いました。母の葬儀には出光のお偉いさ んがたくさん来たので、私の上司はびっくりしていました(社内では言ったことがあまりないので)。

 亡くなって、遺品を整理していると、何にもありません。私は湯のみ茶碗をひとつもらいました。姉は、父に怒って言いました。「着物のひとつも買っ てあげてよ!」。気持ちはわかりますが、仕方がないのです。家計はすべて母が管理していました。自分のためにお金なんて使う人じゃありません。

 まさに武士道です。他人のために自分を使い切る。昔の日本の母は、こうだったのでしょう。幸せの量というのは決まっています。家族4人いるとすれ ば、その4人の幸せの量は決まっています(それぞれが成長すれば幸せの量は増えてきますが)。ですから、誰かをもっと幸せにしてあげようとすれば、誰かが 自己犠牲して自分の幸せの量を減らすしかないのです(それかみんなで成長するか)。まさにその武士道を実践した人でした。
 企業においてもそうです。経営者・社員が成長すればみんなで享受できる幸せの量は増えていきますが、そうでない場合、幸せの量は一定です。だから、社員を幸せにしようとすれば、経営者・リーダーが自己犠牲をする必要があります(お金のことを言ってるのではありません)。

 母は、高校受験の頃とても頭がよかったそうです。その地区で一番よい高校を受けようと必死にがんばっていました。受験当日の朝、祖父と祖母から 「お金がないから、高校を受けないでくれ」と言われたそうです。学校の先生が「秋武(旧姓)、まだ間に合う。先生が自転車で送るから、受けに行こう!」と 外に迎えに来て叫んだいたそうです。祖母が、「汎子は、出かけていません」と先生に告げたそうです。母は、お風呂の中に隠れて泣きじゃくったそうです。先 生の「秋武!秋武!」という叫びを聞きながら。

 勉強には、厳しい人でしたが、強く勉強をしろといわれた記憶はありません。ただ、成績を落とすと、一粒涙をこぼされました。「あなたはこんな成績をとる子じゃないのよ」って言いながら。これにはこたえました。
 私は、中学の頃悪かったそうです(本人はそう思っていませんでしたが)。親父に言わせると「札付きのワル」だったそうです。古い表現ですね。でも、そのことに関して、母は何も言いませんでした。

 姉に、男の子が生まれたとき(甥)、母が姉に言ったそうです。「男の子はね、その日のうちに生きて帰ってくればそれでいいんだよ」って。これが私に対する教育方針だったのですね。その日まで知らなかった。

 「負けてはならない」「人をうらやんではいけない」、これが母の私に対する言葉でした。高校・大学に入ったときも、就職したときも、すごく喜んで くれました。ただ、就職したときに、「うれしいけど、あなたは会社員で終わらないはね」と言いました。ずっと忘れていた言葉でしたが、独立したときに思い 出しました。

 子供の頃、我が家はとても貧しい暮らしでした。高校も大学も奨学金でした。でも、心が貧しい思いをしたことは一度もありません。精神的に豊かな人 生を教えてくれた母に感謝しています。周りに言わせると、私にはすごく厳しかったようです。私はぜんぜんそんな感じを持っていませんが。

 就職して、何度か二人で食事に行きました。とても楽しそうな母の顔を覚えています。13回忌。あなたの息子は、まだ未熟です。でも、負けないし、うらやみません。自分の人生を創造していきます。

PS 思い出したこと
①亡くなる少し前のことです。家にいて、ついに家事もできなくなりました。食事も受け付けなくなりました。元気付けようと、私が食事を作りに行きました。 覚えたてのメニューで。なんとそれを食べたのです。そして父に「ほおら、健がつくってくれた料理全部食べたよ」って言いました。今考えたら、私がつくった から、しんどいのに、無理して食べたのですね。
②母は、戦後北朝鮮からの引揚者です。38度線を越えるための引き上げ活動にはすさまじいものがあったそうです。終戦記念日が近くなるといつもその話を聞かせれていました。忘れないために、また後世に引き継ぐためにいずれこのブログに掲載します。

【昨日の私】
朝ごはん:ゆで卵と野菜ジュース
昼ごはん:IWさんのお店でお弁当。この弁当、むっちゃうまい。
夜ごはん:黒豚の豚丼とマカロニサラダ

 午前中、岐阜事務所で午後から、IWさんのマネジャー研修。さあ、成長に向けて、自分を鍛えよう。自己犠牲できるかな?

【今日の私】
 Fさんの会社です。いろいろ構築しなければ。

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このページは、宝徳 健が2007年7月10日 02:26に書いたブログ記事です。

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