貞観政要

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 この貞観政要もあと二回となりました。前は1週間に一回だけの掲載だったので、かなり長い期間にわたってご愛読いただきました。あと二回をお楽しみ下さい。
 貞観八年、太宗が側近の者に語りました。

「すぐれた知能の持ち主は相手の意見に左右されることはないが、中程度の並の人間は、人に影響されて、どうにでも変わっていくものだ。昔から、太子の補佐役を誰にするか、人選が難しいとされてきたのは、そのような理由によるのである。二つの例をあげよう。

 昔、周の成王が幼かったころ、周公と召公の二人が教育係として補導にあたり、お側に仕えた者もいずれも劣らぬ賢人ぞろいであった。成王は、毎日、彼らから立派な教えを聞いて仁徳を身につけたので、すばらしい聖人になることができた。この成王と正反対だったのが、秦の二世皇帝胡亥(こがい)である。趙高(ちょうこう)にうよってもっぱらウソを教えられた胡亥は、即位するや功臣を殺し、親族に手をかけるんまど、暴虐の限りを尽したあげく、あっという間に滅びていった。この二人の例からもわかるように、人間というのは、側近に人を得るかどうかで善くも悪くもなるものだ。
 
 私は今、太子や諸王のために立派な教育家狩りを選任し、しっかりした教育をほどこしたいと考えている。どうか、誠実で正道を踏み外さない人物を探し出し、それぞれ複数の候補を推薦してほしい」


 経営の承継も同じですね。

 でも、結果は、だめだったですね。跡継ぎは愚帝でした。

 ここに出てくる趙高は、自分の権力を誇示するために、あるとき皇帝に「これは馬でございます」と言って鹿を献じました。皇帝は驚いて「これは鹿ではないか?」と尋ねたが、群臣たちは趙高の権勢を恐れてみな皇帝に鹿を指して馬だと言ました。このとき、鹿だといった人間をすべて殺してしまったのです。これが「馬鹿」の語源です。

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このページは、宝徳 健が2010年2月28日 00:22に書いたブログ記事です。

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