和歌

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 外国(とつくに)で 廃(すた)れし神話が 大和では 民の近くに 生活として

 海外に行くと、神話の世界の建物は、廃墟か観光施設になっています。でも、日本の神社は、いまだに私たちの身近な生活の中にあります。国民がそれを守っているすさまじさ。日本の国のすばらしさの一つですね。

 岐阜に、伊奈波(いなば)神社、金神社、橿森神社(かしもりじんじゃ)という三つの神社があります。金神社は「こがねじんじゃ」です。「きんじんじゃ」ではありません。
 伊奈波神社は、五十瓊敷入彦命(いにしきいりびこのみこと)が祀られています。第十一代天皇 垂仁(すうにん)天皇の第一皇子です。
 垂仁天皇には、狭穂姫という皇后がいましたた。皇后の兄であ狭穂彦が氾濫を起こし、兄とともに死んでしまいました。昔の兄弟というのは、夫婦よりも深い絆があったのです。その後垂仁天皇は新たに日葉酢姫皇后に迎え、第一子に五十瓊敷入彦命、第二子に大足彦命(おおたらしひこのみこと:後の景行天皇)をもうけます。景行天皇は、日本武尊(やまとたけるのみこと)のお父さんです。

 垂仁天皇30年、天皇が兄弟に対しそれぞれが欲するものを尋ねました。兄の五十瓊敷入彦命は「弓矢」を欲し、弟の大足彦命は「皇位」を望み、大足彦命が垂仁天皇の後継者に決まったとされます。あ~、おしかってですね。伊奈波の神様は天皇になっていたのかもしれません。

 その後五十瓊敷入彦命(いにしきいりびこのみこと)は、「菟砥川上宮」(うとのかわかみのみや。現在の大阪府阪南市)にて剣千振を作り、石上神社(いそのかみじんじゃ)に納めます。垂仁天皇は五十瓊敷命に命じて神宮の神宝を掌らせます。

 岐阜市にある「伊奈波神社」 に伝わる縁起によると、五十瓊敷入彦命は朝廷の詔を承けて奥州を平定しましたが、一緒に同行した陸奥守豊益が五十瓊敷入彦命の成功を妬んで、命に謀反の心あり と讒奏したため、朝敵として攻められてこの地で討たれました。日本武尊と同じですね。景行天皇側の陰謀だと思います。

 夫の死を知った妃の渟熨斗姫命(ぬのしひめのみこと)は、都を離れてこの地で御跡を慕い、朝夕ひ たすら命の御霊を慰めつつ生涯を終えたといいます。ちなみに、渟熨斗姫命(ぬのしひめのみこと)は景行天皇の娘です。つまり、姪になります。

 五十瓊敷入彦命は伊奈波神社の主祭神として、現在も厚く崇敬されています。そして、この渟熨斗姫命(ぬのしひめのみこと)が金神社に祀られています。だから、伊奈波神社と金神社は夫婦です。

 そしてそして、その子供、市隼雄命(いちはやおのみこと)が橿森神社に祀られています。だから橿森神社は、夫婦和合、子供の神様と言われています。すっごく素敵な話だと思いませんか?

 こーんな古事記の話が、私たちの生活の身近にあるのですよ。すごいと思いませんか?

 渟熨斗姫命(ぬのしひめのみこと)は、岐阜にで生涯を終えるまで、地域住民にものすごく良い行いをしました。だから、観音様の生まれ変わりとまで言われたそうです。

 こういうすばらしい神様に囲まれている岐阜の人たちは幸せですね。って、岐阜の人たち知っていました?

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このページは、宝徳 健が2010年12月11日 07:26に書いたブログ記事です。

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