和歌

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 今夜、NHKで坂の上の雲がありますね。昨日、紹介しました広瀬武夫が戦死します。

 命を懸け 愛する人と 国護る 死生観ある 大和魂 
 なんと言っても、戦前の日本人と、不埒な日教組による戦後の誤った教育を受けた私たち堕落した日本人との違いは「死生観を持っているかどうか」です。
 
 いつも死を見つめながらだからこそ、今この瞬間を真剣に生きられる。すばらしい教育だったのですね。

 教育勅語の最初の部分を紹介します。

「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克 ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ 淵源亦實ニ此ニ存ス

(ちんおもふに、わがこうそこうそう、くにをはずむることこうえんに、とくをたつることしんこうない、わがしんみん、よくこうに、よくちゅうに、おくちょうこころをいつにして、せいせいそのびをなせるは、これわがこくたいのせいかにして、きょういくのえんげん、またじつにここにそんす)

「わたしがおもうに、皇祖皇宗は、徳豊かな国づくりをな宏遠な思想を持って、そして、深厚なる行動をもって行ってきた。そして、国民はそれによく忠孝をもってついてきた。皇祖皇宗とすべての国民は、心をひとつにしてその美しい国づくりを行ってきた。これはわが国の国体の精華であり、そして、教育の淵源(物事の成り立ちの源。根源)があるからこそである」(宝徳訳)

 この美しい教育勅語を戦後の日本人は葬り去ってしまいました。

 明治時代、欧米諸国に追いつこうと日本は、ほとんどすべての学問の分野を高めました。東京大学を視察に行かれた明治天皇は、その進歩に驚きましたが、ひとつだけ「徳を学ぶ場がないではないか」と危惧されました。

 当時の文部大臣 森有礼はじめ、どの政治家に聞いても、「それは大丈夫です」と答えるのみです。

 国体の危機を感じられた明治天皇は、元田永孚に命じて教育勅語の作成にかかります。明治天皇は何度も筆を入れて完成し、明治二十三年十月三十日に発布されました。

 特に最後の部分をみてください。「朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其德ヲ一ニセンコト
ヲ庶幾フ」(ちんなんじしんみんとともに、けんけんふくようして、みなそのとくをいつに
せんことをこいねがう」

「私は国民のみんなと、このことを、うやうやしく(拳々)、常に心にとどめて(服膺)、
一緒に徳づくりができることを願ってやまない」(宝徳訳)
 この部分は、元田をはじめ、関係者が「国民と一緒というのは、天皇の権威を傷つける」と反対しました。でも、明治天皇は頑としてこの文章を変えさせません。国民と一体というのは、皇室の絶対的な考え方の支柱なのです。明治天皇の偉大さがわかります。

 戦後、国会で教育勅語の廃止が議決されます。でも、これおかしいんですよね。だって、勅語は、法令等ではないので、国会には何の権限もありません。勅語を廃する権限がありません。だから、厳密に言うと、まだ教育勅語は生きているのです。

 あるイギリス人の学者は、その内容に感嘆し、この教育勅語を国民に示すことができる日本は、すばらしいと絶賛します。

 それを考えもなしに日本人は、葬り去りました。内容は、四書五経に書かれてあることばかりです。本場支那ですたれたものを、日本では国を挙げて実現させてきた。いかに戦前の日本がすばらしいかがわかります。それを現代の私たちは「侵略」の一言で片付け、マゾ国家になりさがっています。残念です。

 是非、教育勅語を学んでください。私は毎朝、唱和しています。

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このページは、宝徳 健が2010年12月26日 06:52に書いたブログ記事です。

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