誰にでもわかる大東亜戦争の真実

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 このシリーズは右のカテゴリー「日本の正しい歴史」に格納されています。  東京裁判が成り立たなくなるためGHQ総司令官 ダグラス・マッカーサーが闇に葬った「東條英機宣誓供述書」を解説し、大東亜戦争が侵略戦争などではな かったという、至極当たり前のことを証明しています。

 今日から「第三次近衛内閣の総辞職です。この部分はとても長くなっています。七十~七十七までです。今日は七十を抜粋します。

 みなさん、この「誰にでもわかる大東亜戦争の真実」をお読みになってひとつだけ共通事項があることがおわかりになりますか?

 それは、支那事変が解決し、生活物資が入ってくれば、日本は戦争をする必要がなかったという明白な事実です。米英蘭はそれを邪魔します。なんとか日本から戦争を仕掛けさせたいアメリカは、蒋介石に軍需物資を送り続けます。英蘭と組んで、日本に経済封鎖をしかけます。

 おわかりですね。これだけとってみても、侵略戦争ではないということが。

 黄色人種であるのに、白人と同等の文明や科学技術を誇っている日本をそのままにしておくと、自分たちが植民地にしているアジア諸国が目覚め、自分達がいかにアジア諸国にひどいことをしていたかがばれてしまいます。さらに、アジア諸国から莫大な富を搾取しながら国家経営を築いていた英蘭仏は、それを失うことになります。

 だから、どうしても日本をたたく必要があったのです。もし、アメリカに宣戦布告せずに、英蘭が植民地支配しているアジアにのみ、戦争を仕掛け、生活必需物資を獲得していたとしたらどうでしょうか? もしかしたら、うまくいったかもしれませんね。

 それと、叩きのめされたように思われていますが、日本に勝機はたくさんありました。また、特許庁や日本の役人がしっかりしていれば、日本は勝っていたでしょう。具体的には、レーダーです。あれは日本が発明したのですが、特許庁がわけがわからず、申請を無視したため、欧米に技術を盗まれ、欧米にレーダー技術を活用されたために、日本軍はずたずたにされていました。

 日本が勝っていれば、とっても平和な大東亜共栄圏ができていたでしょうね。世界の地図が変わっていました。とても残念です。
七十
 第三次近衛内閣は当時のわが国の国際危機打開の望みを日米交渉の上に繋げ、これに一切の努力を集中したのでありますが、前にも述べました通り、これも空しく停頓し、他面作戦上の要求は国家として和戦決定の遅滞を許さざるものがありました。その間において1941年(昭和十六年)十月十二日、萩外荘(近衛首相の荻窪における邸宅)における五相会合があり、次いで同年同月十四日閣議において豊田外相と陸軍大臣たる私との間に、今後の国策遂行の方途に関し意見の相違を来たし、その結果はついに同内閣の総辞職となったのであります。この顛末(てんまつ)は、ほぼ近衛公の口述筆記なりと称せられる「第三次近衛内閣総辞職の顛末」ならびに同年十月十五日の木戸侯日誌の記載のごとくでありますが、ただ、その中当時の陸相としての私の経験したところと相違する箇所もありますから次にその概要を述べます。

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このページは、宝徳 健が2011年2月 9日 07:24に書いたブログ記事です。

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