小さな親切、大きなお世話

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 私の大好きな作家 曽野綾子さんが、5月27日の産経新聞に「小さな親切、大きなお世話」のコラムで、「『安心病』の特効薬は」という記事を書いていらっしゃいます。忘れたくない考え方なので、書き留めておきます。曽野綾子さんの記事をそのま抜粋します。昭和一桁の人は素敵だ。
 ある日の夕方、NHKの「ニュースを見ていて、私はおかしな気分にとらえられた。そこに出てくる、たくさんの人たち―校長先生、保母さん、母親たち、視力障害者、漁港の人、アナウンサー―などが流行語のように「安心して・・・したい」と言うのである。安心して仕事を始めたい。安心して子供を外で遊ばせたい。安心して昔と同じように暮らしたい。

 私は私の人生で、かつて一度も、安心して暮らしたことはない。今一応家内安全なら、こんな幸運が続いていいのだろうか。電気も水道も止まらない生活がいつまでできるのだろうか。私の健康はいつまで保つのだろうか、と、絶えず現状を信じずに暮らしてきた。

 何度も書いているのだが、安心して暮らせる生活などというものを、人生を知っている大の大人が言うものではない。そんなものは、地震や津波が来なくても、もともとどこにもないのである。アナウンサーにも、最低限それくらいの人生に対する恐れを持たせないと、お子様放送局みたいになって、聞くに堪えない軽さで人生を伝えることになる。

 安心して暮らせる生活を、約束する人は嘘つきか詐欺師。求める方は物知らずか幼児性の持ち主である。前者は選挙中の立候補者にたくさん発生し、後者は女性か老人に多い。自分で働いてお金を得ている人は、現実を知っているから、なかなかそういう発想にならない。

 しかしこれほど多くの人が「安心して暮らせる生活」なるものが現世にあるはずだ、と思いはじめているとしたら、それは日本人全体の精神の異常事態だ。ことに、これだけの天災と事故が起きた後で、まだ「安心して暮らせる状況」があると思うのは、不幸な事態から何も学ばなかったことになる。

 政治家が、よく分からない時に限って、「きっちりとやる」という癖があることは国民も気づき始めたようで、先日投書にも出ていたが、大きな事故の後は臨機応変の処置をしなければならず、日々刻々変化する状況に対して柔軟に戦略を立てていかなければならないから、決して大口をたたけない。一方、国民の方は昔から原発を「絶対に安全なのか」という言い方で追い詰めてきた。「いや、物事に絶対安全はありませんから、事故の場合を想定して避難訓練もいたします」と原発側が言ったとすると「事故が起きる想定の下で、原発建設をやるのか!」とやられるから、「原発は絶対に安全です」という子供じみた応答になる。

 しかし物事に「絶対安全」ということはないのである。今後いかなるエネルギー政策をやろうと、絶対の安全はないという認識が国民の側にもないと、物事は動かない。もちろん安全は必要だから、より安全を執拗に目指すことは当然だ。

 「安心して暮らせる」とか「絶対安全でなければ」とかは、共に空虚な言葉だ。それはこの世に、完全な善人も悪人もいないのに、幼稚な人道主義者が、自分は善人でそうでない人は悪人と分けることと似ていて、こんな子供じみたやり方では、政治はもちろん、経済も文学も成り立ちえない。国民全体が知らず知らず感染している「安心病」をまともな感覚にまで引き戻す特効薬はないものか。

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このページは、宝徳 健が2011年5月29日 07:31に書いたブログ記事です。

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