支那紀行 その25

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 華清池(ホワチンチー)ほ続きです。
 この地で、香港人の集団と知り合いました。女十人、男一人の手段でした。どんな関係なんだろうと、後で、YTJとあらぬ想像をしました。西安の後、ウルムチまで行くのだと言っていました。ウルムチまで行くと、どれだけ時間がかかるかわかりません。確か、当時は(今も?)、ウルムチまでは飛行機で行けなかったはずなので、電車のたびになります。おそらく往復するだけ1か月はかかったと思います。

 さて、この華清池は、西安事件の場所でもあります。

 1936年(昭和11年)、国民党総統だった、蒋介石が、張学良らによって、つかまってしまいます。国共合作のスタートです。

 八路軍(毛沢東の共産党軍)は、蒋介石の国民党軍によって、壊滅寸前までに追い込められていました。日本はあまり深く支那本土まで入り込まなかったらよかったのですが、八路軍は、自分たちの復活のために、蒋介石と日本軍を戦わせたくて仕方がありませんでした。また、共産主義の総本山、スターリン率いる、モスクワ・コミンテルンは、日本がほしくて仕方がありません。また、日露戦争の敗北が悔しくてしかたがありません。でも、日本軍が強すぎるので、支那本土にも満州にも、日本にも入り込むことができません。そこで、もすくわ・コミンテルンは、日本とアメリカを戦わせようと画策します。強い日本軍が太平洋に行けば、支那本土の日本軍は弱体化するからです。

 そんなこんなもあって、コミンテルンは、張学良を裏切らせ、この西安の地で、蒋介石を捕えて、国共合作への道を作ります。

 蒋介石とその側近が抵抗したときの銃撃戦の後が残っていました。銃弾の跡がはっきりと。

 華清池は、とても思い出に残っている地です。

楊妃池と書いてあります。
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当時スターだった、プロレスのタイガーマスクの真似をしています。バカです。支那での食い物のせいで入国当時よりも痩せています。
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このページは、宝徳 健が2011年12月 4日 08:49に書いたブログ記事です。

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