支那紀行 その36

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 盧溝橋に行きました。「ルーコーチャオ」と読みます。
 1937年(昭和十二年)7月7日に日本軍と支那国民革命軍が盧溝橋で衝突しました。支那事変のきっかけとなったこの事件を、盧溝橋事件といいます。これは、共産主義の総本山モスクワコミンテルンの謀略でした。

 ソ連は、日露戦争で、彼らが黄色い猿と呼ぶ日本人に負けたのが悔しくて仕方がありませんでした。やっつけるチャンスをいつも虎視眈々と狙っています。現在でもです。日本人はこれを忘れてはなりません。また、支那本土で、もっと利権を増やしたいと考えていました。この共産主義の南下を防ぐために、日本は満州を建国し、朝鮮半島を日本の国にしました(植民地にした歴史はありません)。

 ソ連は、支那大陸に出てきたいのですが、日本軍が強すぎてそれがかないません。まずは、支那と日本を戦わせます。でも、蒋介石も最初は日本と戦争をしたいとは思っていませんでした。蒋介石の敵も共産主義者です。

 コミンテルンのスパイを支那軍に送り込んだソ連は、盧溝橋で、このスパイが日本軍に発砲して挑発します。日本軍は我慢しているのですが、しつこく、しつこく、発砲してくるので、仕方がなく応射しました。これが支那事変です。

 支那事変がなかったら、大東亜戦争はなかったと思います。でも、日本を戦争に引きずり込みたいアメリカは、支那とソ連に武器を供与し(実はドイツも。ドイツ人は日本人が大嫌いです)、日本を支那事変から抜けられないようにします。

 それでも、日本軍は強く、また、支那人民衆にもとても優しくするので、ソ連は入れません。だから、ソ連は、次に、日本とアメリカを戦争させようと画策します。その最たるものが、ハル・ノートです。

 盧溝橋は、歴史の別のシーンでも出てきます。マルコポーロの東方見聞録で、世界でもっとも美しい橋だと彼が言っています。万里の長城と盧溝橋でも写真を撮ったのですが、なくしてしまいました。紹介できないのが残念です。

 さて、まあ、世界で一番美しい橋などとは口が裂けてもいえない程度の橋でしたが、欄干の人形の顔がひとつひとつ違って作ってあるのはびっくりしました。北京からバスで1時間半ぐらいかかったかしら。

 ちょうどお昼になってので、食堂に入ることにしました。確か「盧溝橋飯店」。食事はたいていびっくりすることが起きます。ここでも起きました。つづく

紫禁城の写真の続きです。

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このページは、宝徳 健が2011年12月24日 12:24に書いたブログ記事です。

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