鉄拳制裁

| コメント(0) | トラックバック(0)
 この記事は右のカテゴリー「和歌」に格納されています。

 「体罰」が連日新聞紙上やTVで報道されています。

 今回の大阪市のケースは、ひどすぎます。
 私なら、この教師と全面対決して、最悪差し違えるでしょう。これも戦後教育が、「戦う」ということを否定してきた結果です。戦う必要があるときもある。

 中学生や高校生の時に、こういうことがあると、本当は人生のほんの「点」でしかないことを、人生のすべてととられてしまいます。私もある学校に転校した時に、暴力の恐怖に極度の圧迫を受けた時、「もうこの世の終わりか」と思ったこともあります。私の場合は、「不良集団」という「暴力勢力」でした。

 でも、あの理不尽な暴力勢力でさえ、毎日の「精神的な恐怖」はありましたが「暴力が常態化」することはありえませんでした。それが今回、「教師」という絶対的な権力によって、「常態化」されました。スターリンや金正日、いや、ポルポトか毛沢東のような人間社会破壊行為です。

 なあ、死ぬなよ。大変な苦しみだったことは理解するよ。でも、死ぬなよ。君たちの未来は無限に広がっているんだ。いいじゃないか、今のくだらない教育を君たちに押し付ける学校になんていかなくたって。大丈夫だよ、その学校をやめたとしても、まだ選択肢はたくさんあるんだから。お父さん、お母さんは、どうやって生きていくんだい。わかるよ。これらのことももうどうでもよくなるぐらい、精神的に追い詰められていたことは。でも、理屈じゃないんだ。こうやって、命を閉じることがどれほど悲しいことか・・・。君を全く知らない、おっちゃんまでが、涙があふれるてとまらないんだ。お父さん、お母さんがどれほど悲しいか。理屈じゃないんだよ。悲しいんだよ。

 生きていると、筆舌に尽くしがたい理不尽・不合理・不都合がたくさんあるんだよ。それをひとつひとつ受け止めることが生きるってことなんだよ。なあ、死ぬなよ。

 苦しかったんだね。安らかにお眠りください。次に生まれてくるときは、死んではだめだよ。

この命 我の命は 自らの ものだけではない 絶つな命を


 古典や修身の勉強が急務ですね。知識だけの教育をしてはいけません。みなさん、支那の古典「孝経」を読みましょう。こんな悲しい事件は決して起こしてはならない。

 しかながら、絶対的な権力による常態的な体罰と鉄拳制裁を同じようにとらえてはいけません。教育には鉄拳制裁も必要です。でも、鉄拳制裁をする側の人間が「ノーブレス・オブリージュ」「アウフヘーベン」「慎独」「プリンシプル」という四大人間力を具えていないと使う資格はありません。

 戦後の日本教育で日本人自らが排除したものばかりです。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.soepark.jp/mot/mt/mt-tb.cgi/4289

コメントする

月別 アーカイブ

Powered by Movable Type 4.261

このブログ記事について

このページは、宝徳 健が2013年1月12日 06:21に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「鏡開き」です。

次のブログ記事は「ring(一月十一日の日誌)」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。