稲に文句を言わないだろう

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 昨日、本を読んでいたら、こういう言葉が出てきました。

 人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽し人を咎めず、我が誠の足らざるを尋んべし。
 意味は「人を相手にしないで、常に天を相手にするように心がけなさい。天を相手にして、自分の誠をつくして人の非をとがめるようなことはしないで、自分のまごころの足りないことを反省しなさい」です。

 陽明学に事上磨錬という言葉があります。勉学とは、学ぶだけではなく、濁流渦巻く現実の中で活かされないと何の意味もないということです。

 痛いな~。心が痛い。修養の根幹ですね。

 ある方がこうおっしゃっています。「稲作が不作でも、稲が馬鹿だなどと咎める人は誰もいない。どこが悪かったか、どこを失ったかと、誰も自分の足らなかったところを求めてやまないのではないか」。

 幸田露伴は自著 努力論の中で、書いています。

 「何事にもよらず自己を責むる精神に富み、一切の過失や齟齬や、不足や、不妙や、あらゆる拙なること、愚なること、好からぬことお原因を自己一個に帰する」

 わかっていることでも、現実と接すると、人間としてのミスを犯す。事上磨錬の生き方がなかなかできない。私にとっての読書とは、自分を見つめなおす修行のひとつです。

太陽と 水と土壌と 肥料もて 稲が育つは 生きると同じ

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このページは、宝徳 健が2013年1月23日 07:02に書いたブログ記事です。

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