吉野の盟約 2

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よき人の よしとよく見て よしと言ひし 芳野よく見よ よき人よく見

 前回も紹介した万葉集に載っている天武天皇の御製(天皇の和歌)です。

 天武天皇は、なぜ、この和歌を詠んだか。
 繰り返しますが、天武天皇は、壬申の乱から七年後、皇后と六人の皇子と共に、吉野に行幸しました。目的は、「親子が一致団結して争いを起こさない」約束を交わすことでした。

 日本書紀には以下のようにあります。

「ここで誓いを立て、千年の後までも事が起こらないようにしようと思うがどうだろうか」

 天武天皇は提案しました。まずは皇后の鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ:後の神武天皇)が産んだ草壁皇子が進み出て、

「われら兄弟はそれぞれ違った母を持つが、助け合って、争うことはやめよう。今後この誓いに背くことがあれば、命はなく、子孫も絶えてしまうだろう」

 ほかの五人も同じく誓いました。

「われらは母こそ違うが、同じ母から生まれた兄弟のようにいつくしもう」

 天武天皇は「もしこの誓いをたがえることがあれば、たちまし亡きものとなるだろう」と告げ、六人の皇子を抱きました。

 これが「吉野の盟約」と呼ばれるものです。史実です。

 「吉野の盟約」は、親子が協力して壬申の乱に勝利した天武ファミリーの絆の強さを示すもの考えられています。なぜなら、吉野宮は天武天皇が隠棲し、壬申の乱に向けて挙兵した場所だったからです。

 すべて、JR東日本車内月刊誌「ひととき 3月号」を参考にしています。ひとときは素晴らしい。

未だ見ぬ 吉野の里に あそぶときを 今から思ひ 今から夢見る

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このページは、宝徳 健が2013年2月24日 23:29に書いたブログ記事です。

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