真実の日清戦争

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 このシリーズは右のカテゴリー「日本の正しい歴史」に格納しています。

 前回は「「独立党」「事大党」「甲申の変」」だけ覚えてくださいと申し上げました。
 この甲申の変の際に、清が出兵しました。それによって独立党が敗退します。当時、国力が小さかった日本は、清と天津条約を結び、朝鮮の改革支援から手を引かざるを得ませんでした。

 日本は、朝鮮半島を安定させようと涙ぐましい努力を続けていました。朝鮮人にももちろんまともな人はたくさんいます。でも、支那も朝鮮も、まともな人が出てきたらすぐに殺します。だから、このふたつの国ではまともな人間が育ちにくくなっています。

  この時も、素晴らしい朝鮮人がいました。なんとか朝鮮半島をまともな独立国にしようと奮闘し、福澤諭吉をはじめとした日本人は、援助を惜しみませんでし た。そして・・・。この素晴らしい朝鮮人は、一時帰国中に、虐殺されました。その殺され方は、あまりにもむごすぎてここに書くことができません。

 そして独立党は清に封じ込められ、朝鮮はまた清の支配下に戻りました。

 その状況に失望した福澤諭吉が「脱亜論」を出したのは、この直後の事です。

「我が國は隣国の開明を待ちて共に亜細亜を興すの猶予あるべからず。寧ろその伍を脱して西洋文明と進退を共にし・・・我は心においてアジア東方の悪友を謝絶するものなり」

 悪友とは清と朝鮮です。

 さて、清が朝鮮支配を強める中、1894年6月に朝鮮南部で一台農民反乱「東学党の乱」が起きました。これが日清戦争のきっかけとなります。本日は、「東学党の乱」という言葉を覚えてください。

 余談ですが、イザベラ・バードという欧州の女性がいます。我が國が開国したときに、アジアに旅行に来ました。日本の各地を旅行した彼女は、我が國を絶賛します(詳細割愛)。

 こんな妖精のような國に欧州の文化を持ち込んでもいいものかとまで言い切ります。


 彼女は日本の次に朝鮮に渡りました。日本の清潔感に驚いた彼女でしたが、朝鮮の汚さに「この國ほど汚い國はないだろう」と言いました。次に支那に行きました。もっと汚かったそうな・・・。

 朝鮮は、支那が明から清になるとき、明を支持しました。だから清になったあとに、清からいじめられます。朝鮮人がきれいにしていると、清の人間が来て、汚くするそうです。だから、最初から汚くしていたそうな。なんで、そんな國の属国になって喜んでいたか???

 こういう民族性と言うものを理解しないと外交などできません。民族性を理解するには歴史を学ぶことが欠かせません。我が國の支那及び朝鮮に対する外交姿勢は、彼らのことを知れば、明らかに間違いであることがわかります。

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このページは、宝徳 健が2013年3月28日 06:27に書いたブログ記事です。

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