真実の日清戦争

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 日清戦争当時、清の戦争反対派の理由は、西太后の還暦を祝いたいからでした。そのために豪勢な宮殿を建てました。その宮殿を建てるために軍艦建造費を削りました。

 我が國では、明治天皇が宮廷費を削って、軍艦建造費に寄付しました。それを知った国民がそれぞれ國家に寄付しました。まったく違いますね。

 そして、清は我が國に敗けますが、講和条約である下関条約を締結することに皇帝派は反対しました。それでも西太后は、李鴻章を全権代表として日本へ送り、下関条約に調印しました。皇帝派は反対しましたが、日本軍は北京のすぐ近くに来ています。李鴻章は、調印を急ぎました。
 1985年4月17日のことです。

 清はアヘン戦争以降、列強諸国と不平等条約を結ばされ、主権と利害が侵される一方の状態でしたが、下関条約はそれまでの不平等条約よりもさらにいっそう過酷なものでした。なぜなら、これによって二億テール(両)もの賠償金を支払うことになったからです。アヘン戦争では二千百万テール、アロー号事件では八百万テールだったので、その額の大きさがわかります。

 この巨額の賠償金は、財政難に苦しむ清政府には調達できません。露、仏、英、独などの列強から、関税や塩税、高山、鉄道などを担保に大量に借款しました。清の税関は賠償金支払い機関となり、財政や経済は外国の銀行にコントロールされるようになりました。

 二億テールとはどのくらいの規模か。当時の日本円に換算すると三億円です。当時の国庫歳入が一億テールです。その三倍というからすごいですね。今の我が國の歳入が約四十兆円とすると百二十兆円です。

 我が國はこの賠償金を基礎として近代化を加速させました。銀本位制から金本位制へと移行し、経済絵的な国際競争力や国際的な信用を創造しました。

 さあ、有名な臥薪嘗胆が起きます。三国干渉です。

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このページは、宝徳 健が2013年4月 4日 20:30に書いたブログ記事です。

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