藤原氏と東北

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 前回紹介しました多賀城は、七二四年に大野東人によって設置されました。奈良時代に入り、法律による集権的な律令國家建設を目指した朝廷亜、これまで辺境の地として放置していた東北を管理しはじめたことが多賀城設置につながりました。

 七一二年に日本海側に出羽國を創設、七一八年に太平洋側の陸奥國から、石背(いわせ:福島県中通り)、石城(いわき:福島県浜通り)を分割して立國しました。
 こうした管理強化に蝦夷たちが反発します。七二〇年に反乱により東北方面の軍司令官が殺される事件が発生しました。こういう事件を防ぐために造られたのが多賀城です。

 多賀城に、将軍格として派遣されてきたのが鎌足の孫の藤原宇合と麻呂の兄弟でした。

 まず兄の宇合が大将軍として戦乱状態をおさめて、落ち着いてからは内政に強かった弟の麻呂が大使として東北の管理を進めていきました。

 七三七年に、その麻呂が大プロジェクトを実行に移しました。陸奥と出羽路結ぶ「幹線道路」の建設です。

 東北は、ど真ん中に蔵王などの高山が連なる全長五〇〇㎞、日本最長の奥羽山脈が南北に走っています。大陸からの施設が漂着する出羽と豊かな水田が広がる陸奥を結んで一体的に管理できれば、東北が持つ力は何倍にもなります。

 でも、これってすごいですよね。東北に住んだことがある人ならわかりますが、東北地方を横断するとなると、限られた道しかありません。現代でもそうなのに、七百年代(八世紀)にこんなことを考え付くとは・・・・・。政治の世界とは素晴らしいものですね。

 ところが、現代になって発掘作業が進むと、意外な事実が明らかにされました。 つづく

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このページは、宝徳 健が2013年5月21日 03:46に書いたブログ記事です。

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