百人一首 六十五

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うらみ侘び ほさぬ袖だに あるものを 戀(恋)に朽ちなむ 名こそ惜しけれ

 詠み人は相模です。女性なんですが、相模守大江公資(さがみのかみおおえのきんより)を結婚したため、相模といふ女房名で呼ばれるやうになりました。

 これがただの戀の歌ではありません。歌合(うたあわせ)といふ言葉をご存知でせうか?
 歌合とは、歌人を左右二組にわけて、その詠んだ歌を一番ごとに比べて優劣を争う文芸批評の会のことです。最初は遊びだったのですが、どんどん高度になり、平安王朝にとつてはとても大切な行事となりました。

 アホみたいにスマフォのゲームに興じる現代の遊びよりも、かういふ知的な遊びは素敵ですね。

 相模は、紫式部や清少納言が活躍していたころはまだ幼い子供でした。その後一条天皇皇女・脩子内親王(しゅうしないしんのう)に宮仕へするやうになつた相模は、しだいに歌人としての頭角を現し始めます。結婚は、その後破綻しましたが、その後は、かなり浮名を流したさふです。

 宮仕へ、結婚、離婚、そして數々の戀を経験して大人の色香が漂ふ相模・・・。女性は、歳をとるにつてれ本当に熟成した女性になりますものね。

 相模がこの歌を詠んだのは、なんと五十代半ばでした。

「つれないあの人を恨んで嘆き、涙に乾くひまもなく袖が朽ちることさへ惜しいのに、さらに浮名で朽ちる私の名前が惜しまれることだ」

 なんと、なまめかしい。今、彼女が近くにゐたら、絶対に惚れます。

 この歌は、實は、右近少将源經俊の

下もゆる 嘆きをだにも 知らせばや 焼火(たくひ)の神の しいるしばかりに
(人知れぬ嘆きを知らせたい。焼火の神に禱る効驗として)

と対決してゐます。軍配はもちろん相模にあがりました。當然ですね。歌のレベルが違ふ。やはり、昔から我が國は女性の方が優秀です。

 まあ、この時代、女性を「人間」として扱つてゐたのは、世界でも我が國だけでしたけど。他國では、女性は「物」でした。

 女性の優秀さをとことん引き出した古代日本。素敵ですね。






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このページは、宝徳 健が2014年6月 9日 04:02に書いたブログ記事です。

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