英霊たちの言霊 其の弐

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 倉元利雄命

 鹿児島高等商業学校 鹿児島県出身 陸軍特別操縦見習士官一期
 大正三年十一月二十三日生まれ
 昭和二十年五月十一日沒 満三十歳 陸軍大尉

 倉元さんは昭和二十年二月十五日に三重県亀山飛行場に近い熱田神宮で結婚式を挙げました。妻 喜美子さんとお母さんは空襲のため志気を挙げただけで、その日のうちに郷里に歸りました。

 二十年五月四日、倉元少尉(軍隊では軍事行動で亡くなつたら二階級特進をします。なので最後は大尉です)は特別攻撃隊「第六十振武隊」隊員として四式戰闘機疾風に搭乗、僚機六機とともに都城基地を出撃しました。
 離陸直後、倉元機の油洩れを發見した僚機が知らせようと接触、僚機は墜落、倉元機は基地に引き返し胴體着陸しました。この日から倉元少尉は物言はぬ人となりました。

 十一日、この日は倉元少尉が隊長となり、隊員三名と第六十一振武隊の三機を率いて出撃しました。

 その日、喜美子さんは、第六十振武隊が宿舎としていた料亭の隣の旅館で夕方まで待ちました。戻つて來てほしいと思ふ氣持ちと、死を願う氣持ちがこもごもでした。喜美子さんは、四月十三日からこの日まで、出撃を待つ夫とここで過ごしました。それが新婚生活のすべてでした。

 翌昭和二十一年一月二十七日、喜美子さんは女の子を産みました。最後まで特攻隊員であることを知らせなかつた倉元少尉が、妻と産まれてくるであらう愛児に遺した遺書です。

 どうでせう。この美しい精神が侵略者なのでせうか。

喜美子
出発の時は許して呉れ。御許(おもと)を愛すればこを一時をも悲しみをさせたくない心にて一杯だつた。決して嘘を言ふのではなかつた。
どーか元氣を出して全(あら)ゆる苦しみ、悲しみと闘つて行つて後呉れ。強い心で生きて行つて呉れる事を切に々々に望む。
では只今より出發する。有難う。有難う。俺は幸せだつた。喜んで征く。御許の幸福と健康を禱る。
五月四日 五時十二分

愛児よ
若し御許が男児であつたら
御父様に負けない
立派な日本人になれ

若し御許が女子であつたら
氣だてのやさしい女性になつて呉れ

そして御母樣を大切に
十分孝養をつくしてお呉れ

父より
愛児へ

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このページは、宝徳 健が2014年11月 6日 06:03に書いたブログ記事です。

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