凛として 四十四

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 つづきです。
 後にリタが入院したとき、歌子が正月料理を用意したことがある。それを見たリタは「私はもういらなくなったのですか」と嘆いた。家族にきちんとした料理を食べさせることは、リタの生きがいだった。

 二十七年、威の長男の孝太郎が、二年後に長女、みのぶが誕生した。孝太郎の名前は、生れる前から政孝が考の字をとって決めたものだ。

 子供たちをお風呂に入れるのはリタだった。政孝は家の前に車が通るのを心配し「子供に注意」の看板を立てた。どんなに忙しくても、入学式や運動会など行事には必ず参加した。

 日本人以上に日本人らしく夫を支えたリタだったが、昭和十五年以降は、つらいことも多かったようだ。結婚と同時に英国から日本に帰化していたとはいえ、「鬼畜米英」が合言葉だった時代、「アメリカ!アメリカ!」と子供たちによく、はやしたてられた。

 故郷スコットランドに帰りたいとは一度も言わなかったリタだが、「この鼻がもう少し低ければ。目も髪も日本人のように黒くなれば」ともらしたことがある。

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このページは、宝徳 健が2014年11月28日 09:02に書いたブログ記事です。

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