凛として 四十八

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 つづきです。
 政孝の自伝「ウイスキート私」によると「当時ウイスキーは配給価格で百二十円のものが、ヤミで千五百円もした。一時は一本が米一俵の相場だといわれたこともあったが、会社はヤミ行為などできるわけがなく、本格ウイスキーをつくるだけ損をする変なことになった」という。

 政孝は本物にこだわる技術者と経営者であることの葛藤に苦しむことになる。

 昭和二十四年、酒類は自由販売となる。他社はアルコールに匂いと色をつけた三級ウイスキーを大量につくり、もうけていた。当時、三級の定義は「原酒が五%未満。ゼロまで入っているもの」だった。

「イミテーションウイスキーはウイスキーではない。品質が良ければ高いのは当たり前」と主張する政孝にとって三級ウイスキーの製造は考えられなかった。しかし、経営は苦しく給料も遅れるようになり、背に腹はかえられなくなる。

 翌二十五年の春、全従業員を広場に集めて、三級ウイスキーづくりを宣言する。政孝の心中が分かる社員たちも、泣きながら黙って聞いていた。

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このページは、宝徳 健が2014年12月 4日 05:14に書いたブログ記事です。

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