英霊たちの言霊 其の十

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 英霊たちはなぜ命を捧げたのか。それは、かつての我が國の素晴らしさを知つてゐたからです。嫌な國なら、命を捧げることなどしません。不埒な日教組と左翼による敗戰後の過つた敎育により、骨抜きにされた今の愚かな私達臣民にはうかがい知ることもできない崇高な精神が、彼らにはありました。

 私達、現代臣民は、それを恥ずかしいとも思はない、それこそ恥ずかしい人間の集團です。

市川尊繼命
早稲田大學
新潟縣出身
海軍第四期兵科予備學生
大正十年七月八日生
昭和二十年二月二十八日沒
満二十三歳
海軍大尉

二囘ぐらいにわけて書きます。

ここに書く階級と本分に各階級に違ひがあることにお氣づきだと思ひます。戰死は二階級特進するのです。
 昭和二十年二月十九日、硫黄島に米軍が大擧して來攻する中、伊號第三六八、同三七〇、同四四潜水艦三隻からなる囘天特別攻撃隊「千早隊」が編成されました。

 楠正成の故事に因んだその名は、孤軍大敵に背水の戰ひを挑む三隻にふさはしかつた。伊三七〇乘組となつた市川少尉は、その夜、遺書を書きます。

「父上様、尊繼はやはり父上の御氣性を受け繼ぎました。人生二十五年に眞紅を飾ります。
  母上様、お会ひして四方山話を致す處は、私が席を設けてお待ちしております故、ごゆるりとお出をお願ひします」

 二十日早朝、市川少尉たち千早隊員は光基地で出陣式を行ひ、白い菊水の旗ひるがえる伊三七〇、三六八に乘艦、白い鉢巻をしめ感情に固定した「囘天」の上に直立し、軍刀を髙々とかざして「総員帽振れ」の中靜かに出港していつた。

 二十六日、対潜哨戒の航空機と艦艇のひしめく硫黄島近くまで迫つたが米艦艇の猛攻を受け、つひに特攻出撃の機會を得ず潜水艦乘員を運命をともにしました。つづく

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このページは、宝徳 健が2014年12月 6日 10:16に書いたブログ記事です。

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