士魂商才解説(皇紀弐千六百七十五年二月十七日)

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 敎育勅語の父 井上毅(いのうえ こわし)は、憲法制定、敎育勅語作成にあたつて、我が國の歴史ととことん研究します。

 そして、我が國の國體である「シラス」に出逢ひます。

 士魂商才第七十六號から、それについての記事を紹介します(二囘に分けて)。

 巻頭言で紹介した「古事記」に出て來る大國主命の國譲りの一節に井上毅の眼が向きました。

 天照大御神の命を受けた建御雷命(タケミカヅチノミコト:茨城県鹿島神宮の御祭神)が、出雲を治めていた大國主命に「この葦原中國(アシハラナカツクニ)は本來、天照大御神の御子が「しらす」ところの國であるから、この國を譲るやうに」と國譲りの交渉をする話です。

 古事記に触れはじめた頃、この國譲りを知つて、「せつかく、大国主命が懸命に治めた國を今さらよこせ何とずるいぢやないか」と思ひました。でも、違つたのです。

 「大國主命が『うしはける』この地」と「天照大御神の御子が本來『しらす』國である」とは、全く違ふのです。

我國臣民であれば、日本人であれば、絶対に知る必要がある言葉なのです

 今月號は、これだけ讀んでいただいても良いぐらいです。 

 井上毅は、この二つの言葉を研究しました。すると、天照大御神や歴代天皇に係るところでは、「治める」といふ意味で「しらす」といふ言葉が使はれてゐて、大國主命がをはじめとする一般の豪族たちのところでは、「うしはく」といふ言葉が使われていたのです。

 「うしはく」とは、歐州で「支配する」といふ意味で使はれてゐる言葉と同じです。豪族が私物化した土地や民を、權力を以て支配する場合に使ひます。

 それに對して「しらす」は、同じ治めるといふ意味でも全く違ひます。「しらす」は「知る」を語源にしてをり、天皇はまず民の心、すなはち國民の喜びや悲しみ、願ひ、あるいは神々の心を知り、それをそのまま鏡に映すやうに我が心に映し取つて、それを自己と同一化し、自らを無にしやうとされるといふ意味です。

 だから、三種の神器のひとつが「八咫鏡(ヤタノカガミ)」です。

 

 そして、三大神勅の一つが「宝鏡奉斎の神勅(ほうきょうほうさいの神勅)です。

天壌無窮の神勅:葦原千五百秋瑞穂の國は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治らせ。行矣。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ。(天皇陛下を統治者として永遠に栄へよ)

宝鏡奉斎の神勅:吾が児、此の宝鏡を視まさむこと、当に吾を視るがごとくすべし。與に床を同くし殿を共にして、斎鏡をすべし。(統治者である天皇陛下は常に我が身を省みろ)

斎庭(ゆにわ)の稲穂の神勅:吾が高天原に所御す斎庭の穂を以て、亦吾が児に御せまつるべし。(米を以て臣民を養へ)

 このことがわからないと、我が國の根本がわからなくなり、そして、これを理解しないと、他の事は何をやつても無駄なことになります。つまり、

シラス」といふ事實を知らない人は、日本人ではない

のです。

 いくら憲法改正論議をしても、我が國の國體の根本原理を知らないと全く無意味です。學校でいくら良い成績を取つても、何の意味もないのです。いくら、我が子に、知識の敎育をしても、このことを知らない敎へ、それは愚かな行爲なのです。

 逆を言へば、このことを知ることで、子供たちは自信を持ち、このことを外國に知らしめることによつて、我が國の國際的な地位は揺るぎないものになるのです。

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このページは、宝徳 健が2015年2月17日 06:54に書いたブログ記事です。

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