やりすぎではないか(皇紀弍千六百七十五年五月廿日)

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 大阪都構想が敗北しましたね~。僅差で負けるのは私の予想通りです。「都」にならないのに「都構想」と名づけたりするので、ちよつとわかりづらくなりました。

 橋下氏は、國家觀・歴史觀を身に付ければ、よい政治家になる素養があつただけにもつたいないやうな氣もします(これまでの彼は評價しませんが)。彼が維新の會を立ち上げたとき、一大ブームになりました。たくさんの人が彼をもてはやしました。これが彼の失敗のはじまりです。民衆がもてはやすものに、繼續性がないことはこれまでの歴史を振り返へれば明らかです。

 あのとき「維新はすごい」「橋下はすごい」と思つた人は・・・・。

 テーマをぶち上げて物事を壊していく手法は、最初は格好よいのですが、そのうち民衆が疲れてきます。

 それよりも、憲法改正の動きが止まるのが痛い。江田も辞任してくれたのでいいのですが・・・。私としては、安倍政權の一層の安定化のために、橋下氏に勝つてもらひたかつただけでした。

 まあ、維新といふ名前がいけませんね。維新といふ意味がわかつてゐませんでした。
 「我が國の統治機構を作り變へる」。この言葉自體で我が國の國體が理解されていないことが證明されます。彼のやらうとしてゐることは「ウシハク」でした。我が國の國體は、天皇陛下による「シラス」です。

 幕末の志士たちは、テーマをぶち上げてものごとを壊すために明治維新をやつたのではありません。

 おっと、前置きが長くなつた。

 一、二ヶ月前に、アメリカでしたつけ? ムハマンドの風刺画を書く會かなんかがあつて、そこでテロが起きだのだとかなんだとか・・・。がありましたよね?なんであんなことをするんだろう。いえいえ、テロの話ではありません。風刺画を書くことを申し上げてゐます。

 一神敎といふのは困つたものです。特に聖書から派生している宗敎は(佛敎は、心の中に宇宙を求めることから、聖書でいふところの神の敎へとはかなり違つてゐます)。

 宗敎戰爭のテーマは「異敎徒は、殺さなければならない」でした。そして、疲れ果てて最後に「異敎徒でも、殺さなくても良い」とどこかの女王が言つてはい、チャンチャン。その後、絶対主義が極惡なカトリック敎會主義を封じl込めました。

 同じキリスト敎同士でもさうなのですから、イスラム敎といふユダヤ敎の孫宗敎となると、ひどいものです。イスラム敎は、元々もつと穩やかなものでした。それを、アングロサクソンが徹底的にいじめたため、原理主義が強くなり、ひねくれていきました。

 一神教えるは、ITで云ふところのアプリケーションソフトです。他のASを受付ません。我が國は幸せです。神道といふ、世界で唯一のオペレーションソフトとしての宗敎(?)を有してゐます。敎義經典がなくても成り立つのは神道だけです。宗敎といふよりも、私たち臣民に刷り込まれてゐますので、あまり普段意識することがないといふ驚くべきものです。素晴らしい。

 さて、神道はいいとして、風刺がなんか書くなよ。かういふのを「いらんこと」といひます。

 私だつて天皇陛下の風刺画を書かれたら、爆発するぐらいの腹が立ちます。

 メディアは、一方的にテロの責任にしてゐます。表現の自由とのたまひます。殺すのはいけませんが、その原因を作つたのは誰でせう? 「表現の自由」は何をやつても許されるのでせうか?

 間違つてゐるかな~。



 

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このページは、宝徳 健が2015年5月20日 03:40に書いたブログ記事です。

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