どの本よりもわかりやすい古事記

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   かなり長編になってきました。ぜんぜんコンサル会社のブログらしくないですね。でも、読者が多いらしく、書かないと催促のメールが入ってきます。
 でも、日本は素晴らしい文化を持っていますね。古事記の神代が終わったら、旧約聖書でも書こうかな。ギリシャ神話でも書こうかな。千夜一夜物語でも書こ うかな。それら世界文化に勝るとも劣らない文化をもっているわが国は素晴らしいですね。
 人口減、環境、財政、防衛、教育と様々な課題を抱え、国民レベルでこれからの日本を論じなければならない時代に来ています。今こそ、私たち日本人の祖先 が残してくれた文化を理解するときです。
 さて、前回は神武天皇がお生まれになられたところまででした。
   さて、ニニギノミコトの天孫降臨以来九州に住みついた天つ神ですが、九州は、たくさんの部族国家があって、絶えず争いがあります。その争いに巻き込 まれていては、政治もできません。神武天皇(以下、会話ではジ)がお兄さん(以下、会話ではニイ)と話し合いました。(九州ですから博多弁で)
ジ「お兄ちゃん、どっか、住みやすうて、政治しやすいとこないとかいな?」
ニイ「ほんなごつ、ここは住みにくか」
ジ「どげんや、東の方ば、行ってみんや?」
ニイ「そうっちゃ、東の方にくさ、よか土地があるて、誰かがいいよったばい」
ジ「そうっちゃ、そうっちゃ。でかけるったい」
ニイ「それしかなかけんね」

ということで、一族を連れて大移動をしました。

日向(宮崎県)を離れて、筑前(福岡)向かいました。途中、豊の国(豊前、豊後:大分県)の宇佐に到着しました。八幡宮の総本山宇佐八幡宮があると ころです。そこで、いろいろとご馳走になって、筑前に向かいました。筑前で一年ほど過ごしました。この筑前は、今の、遠賀郡芦屋町を示します。私は、一時 期ここで暮らしました。ひとりで壁に向かってキャッチボールをしていたとき、ボールが変なところにはねて、家の近くの林に入っていきました。誰も通らない ようなところです。すると神武天皇のお墓のようなものがあったのをはっきりと覚えています。お墓ではなく碑だったんですね(神武は架空の人物と言われてい ます。ちなみに)。そこで力を蓄えて、瀬戸内海を旅して安芸(広島)に行きます。ここでは七年間過ごしました。そして、吉備(岡山)で八年間。食べ物のお いしいところばかりですね。神武天皇は食いしん坊だったのかな?

 さらに東を目指します。その時、ある釣り人が手を振って近づいてきます。そろそろ関西に入るので関西弁で。
ジ「お前、どこのやっちゃねん?」
釣り人「土地のもんじゃ」
ジ「ほんなら、船で行きたいよって、塩の路おしえたらんかい」
釣り人「ええけど、どこ行くねん?」
ジ「わかるはず、ないやろうが、行ったことないんやさかい。お前行ったことあるんかい?」
釣り人「あるにきまっとろうが」
ジ「ほな、教えんかい」(あの~こんな品のない関西弁ではないと思います。神武天皇は)
 
 すると陸地が見えてきます。
ジ「それにしても浪(波)の速い海やのう。そや、浪速ってつけたろう」(これで、大阪が浪速になりました)。

 そうこうしているうちに、大きな河(淀川)の河口にある白い三角州(肩)を見つけました。白い肩がなまって、今の枚方になっています。

 さてさて、こうやって、神武天皇は、九州から瀬戸内地方を従えて行きます。しかし、ここで思わぬ抵抗を受けます。さすが関西人!中央の言うこと聞 かない。
 次回は、神武天皇がこのちの豪族と戦い平定していく物語です。楽しみにしてください。

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このページは、宝徳 健が2006年5月27日 16:26に書いたブログ記事です。

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