孫への手紙

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  平成17年7月19日に親父が私の息子に送った手紙です。7月10日の手紙の訂正と、ひとりでタイ旅行に行ってきた報告です。

真大君
 学校制度(学制)のお話で、帝国大学の数が間違っていました。
 東京帝国大学、京都帝国大学、京城帝国大学、台北帝国大学だけを書きましたが、北海道帝国大学(札幌市)、東北帝国大学(仙台市)、九州帝国大学(福岡市)を追加してください。京城帝国大学、台北帝国大学はいまは外国ですからありませんが、ほかはそれぞれ、帝国の名前をなくして、東京大学、京都大学などになっています。

タイのお土産!!
○黒いポシェット―真大君
○絵葉書    ―真大君
○ハンカチ    ―お母さん
○ネクタイ    ―お父さん
○お菓子    ―みんなで


<絵葉書に日本人町(山田長政)があります>
〔山田長政〕―やまだながまさ
 シャムの日本人町で活躍した人。駿河の国(静岡県)の人。慶弔16年81611)ごろ、朱印船で台湾をへてシャム(タイ国)に渡った。アユタヤの南東に日本人町をつくり、日本人のかしらとなり、シャムの国使の来日に当たっては、しばしば書や贈り物を幕府の重臣に贈って国交の親善に努力した。

 シャムの外交貿易に活動するとともに、同国の内戦・外征にも日本人を率いて参加、武勲をたて、国王の新任をえて最高司令官になった。1628年、王の死後王位継承の争いを鎮めて王子を即位させた。
 その後、王族の野心家が王位を狙って長政を敬遠して、地方の朝刊にしたので、長政は1629年、認知におもむいたが、侵入した敵と対戦中、脚に負傷、シャム人が傷口に塗った毒薬で、1630年最期をとげた。
 長政の子供は父のあとを継いで地方長官になったが、みなが服従しなかったので町を焼いてカンボジアに行き、カンボジア軍に参加して、シャム(タイ)軍と戦っているときに戦死した。アユタヤの日本人町もシャム軍に焼き討ちされ、日本人の勢力は衰えていった。

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このページは、宝徳 健が2007年2月22日 06:20に書いたブログ記事です。

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