本の言葉と自分の生き方を検証する

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   伊與田覺氏の『「人に長たる者」の人間学』です。何度も何度も目を通しています。素晴らしい。今日は第二講「小人の学―小学を読む―」です。この第二講は長いので、二回に分けて書きます。
 感想文を書いて、最後に、心に残しておきたい本の中の文章を書きます。
   小学とは、小人の学、小人とは普通一般の人です。つまり、「誰でもがいつでもどこでもわきまえておく基本的なことを学んでいく」ことです。

 論語に「子曰(のたま)わく、性、相近きなり、習い相遠きなり」(孔子が言いました。人の生まれつきは大体同じようなものであるが、躾によって大きく隔たるものだ) というものがあります。
 現代の日本人に一番欠けていることです。ゴミを捨てる、灰皿を捨てる、くわえタバコをする、モンスターピアレント・・・・。数えたら限りがありません。きっと私も何かを置かしているのでしょう。人間の自律性・自立性のなさもそうです。人に何かをしてもらうことが当然であって、してあげることはしない。
 私達は裕福な時代に育ってきました。また、日本は有史以来はじめて繁栄を知りました。昔の日本は、裕福でないために、自分達の精神を鍛え素晴らしい国を作ってきました。ところが、繁栄の時代に裕福に育った現代の日本人はそれをしてきませんでした。日本人は裕福な時代の過ごし方を知らないのです。飛び込んできた裕福に、自分が得をすること価値観である「勝手主義」が横行しました。国家に利益よりも、個人の利益が過度の優先されています。だから、不幸な事件が会社にも個人にも起きるのでしょう。そういう不幸な事件が起きても、「社会が悪い」「政府が悪い」などなど、自分以外の第三者に責任にします。組織においても「提案したのにやってくれなかった」「自分は前からそうすればいいと思っていた」などという、恐ろしい三人称発言が起きることがたくさんあります。

 また、自律してないが故に、外国からちょっと何かを言われたら自国を擁護することもしません。特にマスコミが。責任転嫁・マゾの国になってしまっています。世界で類をみないこんなに素晴らしい文化と歴史を誇る国なのに。私たちの祖先が必死になって創りあげたこの素晴らしい国に唾しているのが今の私たちです。私も偉そうなことはいえません。少しずつ修行していきます。

 社会人として、道徳・習慣、知識・技術を身につける。道徳・習慣は、前回も述べました「本学=人間学」であり、知識・技術は「末学=時務学」です。この末学のみで優秀さがはかられるところに今の日本の教育の悲しさがあります。親が最もそこにのってしまっている。戦後教育を受けてきたので。戦前の教育には「修身(しゅうしん)」というものがあったそうです。うらやましい。

 道徳・習慣の中で、習慣は形に表れるものであり、道徳は心の世界です。繰り返し繰り返し行い、それが抵抗梨にできるようになったときに「習慣化された」と言います。私たちがひよこで行っているルーティンは、完結する日の方が少ない。やる項目を完全に覚えていない。全然習慣化されていません。

 習慣化するためには、何が必要か「躾(しつけ)」です。本来は、人間は自由に考え動くことが最上です。しかし、自由にまかせてきちんとできる「自律」の人はまれです。苦よりも楽なほうへと進みたくなります。だから、せっかくやりはじめたことでも腰砕けになってしまいます。
 だから「躾」。躾とは「押し付けです」。自由という責任を果たせない人は「他律」です。だから、習慣化するまで他の人に「押し付けて」もらいます。
 ところが、経営の現場でも、自由主義の意味を履き違えた勝手主義の戦後教育を受けてきたことから、「それをやって何か意味があるのですか?」「そんな押し付けは納得できません」というような声がよく聞かれます。未熟な人ほどそのことを言います。責任転嫁する人ほどこの言葉を使います。してもらうばかりで、してあげない人ほど、この言葉が好きです。
 最初に紹介した論語にあったように、躾によって大きく変わるのでしょう。そして、先進国で最も躾が乱れている国という汚名を返上しましょう。どんなに勉強ができても、道にゴミをすてるようではだめです。

【本の文章の紹介】
※松下幸之助氏の言葉
「民主主義の国家として一番大事なものは、やはりその民主主義を支えていくにふさわしい良識が国民に養われているということでしょう。さもなければその社会は、いわゆる勝手主義に陥って、収拾のつかない混乱が起こりかねないと思います。ですから、国民お互いがそれぞれに社会のあり方人間のあり方について高度な良識を養っていかなければなりません。国民の良識の高まりという裏づけがあってはじめて、民主主義は花を咲かせるのです。民主主義の国にもし良識という水をやらなかったならば、立派な花は咲かず、かえって変な花、醜い姿のものとなってしまうのです」。

※習慣という文字の意味
 習慣の「習・しゅう」という字は、元来は「羽」と「自」の合字であるという説があります。羽は象形文字です。「自」は今では「白」という字を書いていますが、これは「自」が変形したもの。あるいは「白」は鳥の胴体をあらわすということから、ひな鳥が親の飛ぶ様子を見て、自分もあのように飛びたいとはばたきの稽古をすることを「習」といいます。したがって、重ねて行うこと、息が切れるほど繰り返し繰り返し行うことを「習」という。頭で分かっただけでは「習」とは言わない。繰り返し繰り返し行う。

 習慣の「貫」というのは、「毌」だけでもいいんですね。これは何かというと、昔は貝を金の代わりに使っていたんです。それを通して銭さしといいますが、その象形文字が「毌」。あるいは、玉を連ねたという意味もあるが、もともと銭さしのほうでしょう。(中略)
 要するに「習慣」の「毌」という字は「銭さしのように貫く」という意味で、そこにていねいに貝をつけた。貫くためには、心を変えないようにしなければならない。我々の心はコロコロ転ぶから心だと。人間の心には欲望が無数にあるわけですね。しかし、何かやろうとしたら、たくさんある心をひとつにまとめなくてはいかん。十の心を一つの心にまとめたものを「志・こころざし」というのであります。「志」を立てることを「立志」ともいう、りっしん辺というのは、心を立てるということです。
 だから、心を変えないで一つのことを貫き通していく。そうすると慣れてくる。「慣れる」というのは、抵抗なしに、無意識的に行われるようになったときに、「慣れる」というのです。「習慣」というのは、繰り返し繰り返し行って、それが抵抗梨にできるようになったときに「習慣化された」というのですね。

※躾という字の意味
 この「習慣化」のことを日本では「躾」といいます。躾というのは、「身・しん」と「美・び」という二つの文字を合わせてあるんです。だから、躾ができていると立ち居振る舞いが美しくなってくる。(中略)
 躾で一番に思い出すのは、着物を縫うときの躾糸です。あれは布を折り曲げて元へ返らんおうにしておくですな。本に返らんように押し付けておかなければいけないんです。したがって、「躾」といのは「押し付け」ということなんですね。本縫いができたら、躾糸は必要なくなりますから、これを取り払うのです。

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このページは、宝徳 健が2007年5月20日 10:18に書いたブログ記事です。

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