本の言葉と自分の生き方を検証する

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  伊與田覺氏の『「人に長たる者」の人間学』からです。第五講の後半「極限状態での対応で人間に価値が決まる」です。
 本文を引用しながら、自分の生き方を検証していきます。
  孔子は、五十を過ぎて天命を知りました。その力を活かしたくて、政治に携わりました。51歳の」ときに、地方紹介になりました。するとすぐに成果が あがってきます。中央に召されて、建設大臣になります。そこでも成果をあげたので、総理大臣代行のような仕事をするようになり敏腕をふるいます。でも、人 間社会で最も恐ろしいジェラシーが爆発して、やむなく母国を去って旅に出ます。自分をわかってくれる国を求めて、十数年各地を彷徨します。

 子曰く(先生は言いました)、予(われ)言うこと無からんと欲す(私はもう何も言うまいと思う)。子貢曰く(子貢が言いました)、子如(も)し言 わずんば、則(すなわ)ち小子何おか述べん(先生がもし何もいわなければ、私どもはどうして先生の教えを学び、伝えることができましょうか)。子曰く(先 生が言いました)、天何をか言うや、四時行われ百物生ず、天何をか言うや(天は何を言うだろうか。しかし春夏秋冬の四季は巡っているし、万物は自ら生成し ているではないか。天は何を言うだろうか」

 子曰(先生は言いました)。我を知る事なきかな(私を知ってくれる人がいないねぇ)。子貢曰く、何為(す)れぞ其れ子を知ることなからんや(どう して先生のような方が世に知られないということがあるんでしょうか)。子曰く、天を怨みず、人をとがめず、下学して上達す。我を知る者は其れ天か(私は知 られないからといって、天を怨んだり、人をとがめたりしない。私は身近な低いところから学び、だんだんと天理にしたがって高いところに昇って行きたいの だ。私を本当に知っているのは、まあ、天かな」

 吉田松陰は二十五歳のときにアメリカに渡ろうとして失敗し、自首して捕らえられました。そのとき

 世の中の人は良し悪し言わば言え、我が為すことは神のみぞ知る

 と言っています。

 菅原道真は

 心だに誠の道に適いなば祈らずとても神や守らん

 です。

 一休さんは

 心だに誠の道に適いなば、守らずとてもこちゃ構わん

 です。心が誠に適っていたら、神が守ってくれなくても構わないという意味です。

 坂本竜馬は、
 
 世の人はわれをなにともゆはばいへわがなすことはわれのみぞしる

 です。すごいですね。

 孔子は、その後、旅を続け非常に苦難な道を歩んでいます。その過程におけるいくつかの言葉を書いておきます。

 子、匡(きょう)に畏(い)す。曰く、文王既に没したれども、文茲(ぶんここ)にあらずや。天の将(まさ)に斯の文を喪(ほろ)ぼさんとするや、後死の者、斯の文に與(あずか)るを得ざるなり。点の未だ斯の文を喪ぼさざるや。匡人其れ予(われ)を如何にせん。

 「匡に囲まれたとき講師がいった。成人と仰がれる文王は既に死んで、この世にはいないが、その道は現に私自身に伝わっているではないか。天がこの 文(道)を滅ぼそうとすると、私はこの文(道)に与ることができないはずだ。天がまだこの文を滅ぼさない限り、匡の人達は絶対に私をどうすることもできな い」

 孔子が衛の国から陳の国に向かう途中に匡という町がありました。そこで恐ろしい目に遭ったのです。講師の顔が匡で暴挙を働いた人間に似ていたた め、匡の人から間違えられて、五日間も取り囲まれてしまったのです。弟子達は恐れおののきましたが、そのときに孔子が言ったのがこの言葉です。

 また、孔子がある大きな樹の下で弟子に講義をしたいたとき、孔子を憎んでいた宋の国の大臣が(名前が桓魋(かんたい)という人が、孔子を亡き者に しようとして、その大きな樹を切り倒して孔子を押しつぶし殺そうとしました。弟子達が恐れおののく中、孔子が、そのときに言った言葉が

 子曰く、天、徳を予(われ)に生(な)せり、桓魋其れ予を如何にせん。
 「孔子が言った、天は私に徳を授けている。桓魋如きが私をどうすることもできないだろう」

 このような言葉がこの第五講にたくさん紹介されています。つまり、極限の状態に置かれても、悠然としてそれを乗り越える。「君子固(もと)より窮す」です。「固窮」。

 私たちは、いつぎりぎりの極限状態に置かれるかわかりません。事業も当然そうです。そのような極限状態を処理するとき、どうあるべきか。普段よ り、自らの持っているその仕事に対する使命感とか、あるいは自分の人生観、そういう確固たるものを持っているかいないかで、まったく違うのでしょう。

 結論から言えば、私は、生きることに対する覚悟がまだまだ足りない。すごく苦しい状況になり「あ~、もうだめだ。と思うまで努力を続けると、何か そのときは、天が助けてくれる。なぜか分からないが好転しはじめる」  このことを知っているくせに、そこまで追いこめられることに躊躇する。ぜんぜん覚 悟がたりません。日々精進。決めたことをやろう。

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このページは、宝徳 健が2007年7月 8日 04:53に書いたブログ記事です。

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