戦国策

| コメント(0) | トラックバック(0)
  このシリーズは左下のカテゴリー「戦国策」に格納されています。シリーズでご覧になりたい方はどうぞ。

 戦国時代は、殷→周→春秋時代の後に続きます。周のはじめ約八百あった諸侯は、春秋時代には焼く百四十に統合されます。弱小国が淘汰され、天下に 号令する覇者と呼ばれる人が出てきます。でも、春秋時代には、まだ、周の天子をおしいだいています。それが、周がほろび、戦国時代へと突入していきます。 高校時代の国語の教科書に「鼎(かなえ)の軽重を問う」というのがあったのを覚えていますか?これは春秋時代の話です。機会があれば紹介します。今日出て くる呉王夫差は越王匂践(こうせん)も、臥薪嘗胆の話で高校時代に習いましたね。


 さて、昨日に引き続き「百里を行く者は九十里を半ばとする」です。ある重臣が秦の武王を諌めます。昨日は古代の聖人たちも、物事に初めと終わりを重視し たと諫言したとことまででした。重臣の諫言が続きます。

 

「なぜそう言えるか例をあげましょう。
 昔、知伯(ちはく)は、中行(ちゅうこう)氏を滅ぼしたうえ、趙氏の本拠である晋陽(しんよう)を包囲して当たるべかざる勢いでしたが、結局は趙氏、魏 氏、韓氏の連合軍に討ち取られてしまいました。また、呉王夫差は越王匂践(こうせん)を追い詰めて降伏せしめた後、他国と戦って勝利を収め、諸侯を従えま したが、最後は匂践に捕らえられ自害しました。みんな、実力はあって、最初はよかったのですが、最後まで持続できなかったのです。

 今、王は、宜陽(ぎよう)を攻略して韓の領内を荒らしまわりましたが、天下に人々に一言も文句をつけさせませんでした。さらに、各国と断交して周 の領内に侵攻しましたが、その間、わが国に軍をさしむける国はひとつもありませんでした。もしここでもう一段のツメを怠らなければ、偉大な事業を達成する ことができるでしょう。逆にツメを誤って、あとあと禍を引き起こすような事態になれば、天下の諸侯から笑われるでしょう。詩にも「百里を旅する者は九十里 を半ばと心得よ」とあります。」

 まだ、つづきます。明日のお楽しみ。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.soepark.jp/mot/mt/mt-tb.cgi/694

コメントする

月別 アーカイブ

Powered by Movable Type 4.261

このブログ記事について

このページは、宝徳 健が2009年6月 8日 00:45に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「和歌」です。

次のブログ記事は「素晴らしきかな海上自衛隊(6月7日の日誌)」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。