貞観政要

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 理想の政治とされる明の太宗の「貞観の治」を書いた、貞観政要を掲載しています。

 今日のテーマは「人道は謙を好む」です。
 貞観二年、太宗が側近の者に語りました。

「天子ともなれば、人にへりくだる必要はないし、なにひとつ畏れることもない、と言う者がいる。しかしわたしは、常に謙虚な態度で人に接し、畏れの気持ちを持って政治に取り組んできた。昔、聖天子の舜が禹を戒めて『そなたが能力や功績を鼻にかけなければ、そなたと能力や功績を張り合うものはいなくなる』と語っているし、『易経』にも、『驕慢(きょうまん)を憎んで謙虚を好むのが人の道だ』とある。
 天子たるもの、思いあがって謙虚さを忘れれば、みずから正道を踏み外したとき、あえてその非を指摘してくれる者など一人もおるまい。私はなにか発言したり行動を起こしたりするたびに、はたして天の意志にかなっているのか、臣下の意向に沿っているのか、必ず自戒してきた。なぜかと言えば、天はあのように高くはあるが、下々のことによく通じているし、臣下の者は絶えず君主の言動に注目しているからだ。それゆえわたしは、常に畏れの気持ちを抱いて謙虚に振舞いながら、なおかつ天の意志と人民の意向にかなっているかどうか、厳しく自分を戒めてきたのである」

 魏徴が答えました。

「古人も『はじめはなべてよかりしものを、なぜ終わりをよくしたまわぬ』と語っています。どうか陛下におかれましても、常に天を畏れ人民を畏れて謙虚に振舞われ、日々、反省を怠りなきよう願いあげます。さすれば、我が国は長く繁栄し、滅亡の悲運に泣くことはありますまい。かの堯舜の世が泰平であったのは、常にこのことを心がけたからにほかなりません」

【宝徳の所見(参考文献とは関係ありません)】
 古代中国では皇帝のことを天子と言いました。天になりかわってその意志を実行するからです。今、世界中で天子と呼べるのは、日本の天皇陛下しかいません。
 さて、天子とは、天の意志を実行し、民の意思を汲み取ることです。そうなると、自分個人の我が儘は許されず、謙虚になることが求められます。中国の古典はこの「謙虚」ということをしきりに語っています。特に上に立つ者にはそれを求めています。しかし、卑屈になってはいけません。「謙虚でありながら毅然としている」ことがリーダーに求められることなのでしょう。

 中小企業の経営者は、大企業の経営者に比べて、大きな権力を保有しています。だからこそ、謙虚に天の意志(これは経営で言うと市場の声でしょうか)と、民(社員)の意向を汲み取り、なおかる、毅然とした理念で、自分を戒めながら経営を行うことが求められます。
 国は善性が敷かれると、国は富み、民が増えます。経営も善政を敷くと、会社は富み、社員は増えるのでしょう。経営をしているとどうしても近き「利」に目がいってしまいます。これはしかたがないことですが、少しでも「遠くの義」を見つめる姿勢を持ちたいものです。






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このページは、宝徳 健が2009年11月 9日 04:57に書いたブログ記事です。

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