誰にでもわかる大東亜戦争の真実

| コメント(0) | トラックバック(0)
 このシリーズは右のカテゴリー「日本の正しい歴史」に格納されています。

 「大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書」を読み解きながら、大東亜戦争が侵略戦争ではなかったことを、まず証明していきます。

 昨日は、東條英機元首相のお孫さんである東條由布子さんが、偶然にも神田の古本街で、この本を見つけた話を書きました。

 宣誓供述書とい うのは、裁判を迅速に進行させるために、被告の言い分をあらかじめまとめておくというものです。つまりこの書類が裁判の行方を左右することになります。そ のためこれを作成するに当たっては、法廷で不備を指摘されないよう、きちっと年代順に、しっかりとした事実に基づいて書き進める必要があります。ですか ら、弁護士をはじめ関係する人はとても神経を使う仕事になります。東條英機元首相は、几帳面な性格で、手帳に自分の言ったことや部下の答えたことまで細か く記録していたそうです。だからこそ、この宣誓供述書は事実に基づく完璧なものとなっています。

 それが、東京裁判では採用されませんで した。当時の日本人は侍ですね。東京裁判で取り上げられないのであればと、洋洋社という出版社から「東條英機宣誓供述書」として発行されたのです。当時の 日本はGHQの支配下にあります。これがどれだけ危険な行為かは、今の平和ボケした私たちには知ることができません。発行すぐに、昨日述べましたが、マッ カーサーが「発禁第一号」に指定しました。

 さあ、少しずつ見ていきましょう。平易な言葉に置き換えていますし、みなさんの理解促進を目的としていますので、全てを紹介することは避けます。興味のある方は「大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書 WAC」をお求め下さい。
第二次近衛内閣の成立と日本を取り巻く内外の情勢
 近衛公は、わが国は今後いかなる国策を取るべきか、ことに日本は支那事変遂行の過程にあるので、陸軍と海軍の一致、統帥と国務との調整等に格別の注意を払われていた。
 とにかく支那事変の完遂に重きをおくことを最重要政策と位置づけたのでした。
 東條英機(すみませんが敬称略でいきます)も、
①支那事変の解決に全力を注ぐこと
②軍の統帥を一層確立すること
③政治と統帥の緊密化ならびに陸海軍の強調を図ること


という方針を立てました。支那事変は当時の日本にとって最大の悩みでした。

 ここからは、私見です。

 私たちは、学校で歴史を学ぶとき、政争としての、軍の横暴を必要以上に強調されて学びました。もともと、鳩山前首相の祖父 鳩山一郎が、政敵との論争で、大日本帝国憲法には統帥権は天皇にあるとされているのだから、内閣は勝手に軍のことを決めるなということを言い出して、それに目をつけた軍が力をつけたのです。まったく鳩山一族は、いつの時代もいらんことをしてくれます。

 さて、読み進める前に、時代背景を勉強しましょう。支那事変です。

【支那事変】
 1937年(昭和十二年)からはじまった大日本帝国と中華民国の間で行われた長期間・大規模な「戦闘」です。今、教科書では、日中戦争となっていますが、これは誤りです。「戦闘」です。これも、戦後の誤った教育ですね。中国側は「戦争」とした方が、都合がいいのです。「侵略戦争」と言えますから。

 でも、両国も宣戦布告を行っていません。ですから、戦争ではなく「戦闘」なのです。なぜ、宣戦布告を行わなかったか。

  戦争が開始されたが相、第三国は「戦時国際法」上の中立義務が生じます。交戦国に対する軍事的支援は、これに反する敵対行動となるためです。

 日本は、なんとか戦争を避け、国際的孤立を避けたいとの思惑がありましたから、支那事変を収めよう収めようとして、宣戦布告にはもっていかなかったのです。では、中国は?

 当時の中国(蒋介石政権)は、英米からの支援なしには、戦争継続が不可能でした。だから、宣戦布告をしてしまうと、英米の支援を受けられないので、宣戦布告をしたくなかったのです特に、当時のアメリカには中立法とうものがあり、戦争になると支援を受けられないのは明白でした。アメリカとしても、なんとか日本をやっつけたいとい思いが強く、中国を支援することで、日本を戦争に巻き込み、日本の力を弱めたかったのです。中国が日本に宣戦布告をしたのは、日米戦争開戦後です。相変わらずずるい国ですね。

この英米が強力に中国を支援したことが支那事変を泥沼化させた

 ことを日本人は忘れてはいけません。

 支那事変は、盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)を発端に第二次上海事件を経て中国全土に拡大していきます。

 さて、このときに、共産主義の総本山「モスクワコミンテルン」が暗躍します。共産主義を拡大したいソ連は、格好のチャンスと見たのです。英米中と日本が争えば、自分たちの手を汚さずに日本は弱体化します。満州と朝鮮半島がほしくてしかたがなく、また、日露戦争の仇をとりたいソ連は、英米にも、日本にもスパイを送り込みます。盧溝橋事件のとき、日本側としては戦闘行為に及びたくないため、日本からの攻撃は厳に慎みました。ところが、執拗に中国側から発砲があり、先頭にいたらざるをえなくなりました。これが、盧溝橋事件です。このとき、しきりに発砲したのが、モスクワコミンテルンから入り込まれたスパイなのです。

 日本が治安維持法を発動させたのも、共産主義の脅威を排除するためです。

 この支那事変は、戦後の学校教育では「日華事変」に統一されていました。昭和50年代以降は「日中戦争」という呼称になりました。日教組やマスコミが中国から「支那」は差別用語だという圧力を受けて変更するよう運動を起こしました。内政干渉甚だしい愚かな行為に愚かな日教組とマスコミが乗ってしまったのです。戦後の教育がなぜ誤っているかがこのころからも分かりますね。支那という言葉に差別的要素はありません。

【東條英機略歴①】
1884年(明治十七年)東京生まれ
1905年(明治三十八年)~1944年(昭和十九年) 陸軍士官
1940年(昭和十五年)七月二十二日 第二次近衛内閣 陸軍大臣(当時陸軍中将)
1941年(昭和十六年)七月十八日 第三次近衛内閣 陸軍大臣
1941年(昭和十六年)十月十八日 内閣総理大臣(陸軍大臣 内務大臣兼務)
1944年(昭和十九年)二月 参謀総長
1944年(昭和十九年)七月二十二日 内閣総辞職 すべての官職を免ぜられる 予備役編入

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.soepark.jp/mot/mt/mt-tb.cgi/1453

コメントする

月別 アーカイブ

Powered by Movable Type 4.261

このブログ記事について

このページは、宝徳 健が2010年8月11日 07:04に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「「侵略された日」を心に刻もう(8月10日の日誌)」です。

次のブログ記事は「和歌」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。