誰にでもわかる大東亜戦争の真実

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 東京裁判が成り立たなくなるためGHQ総司令官 ダグラス・マッカーサーが闇に葬った「東條英機宣誓供述書」を解説し、大東亜戦争が侵略戦争などではなかったという、至極当たり前のことを証明しています。

 「暗礁に乗り上げた日米交渉」を解説しています。

 今日は「東條英機宣誓供述書」の第二十八をそのまま抜粋します。

「しかし翌四月二十二日(1946年 昭和十六年) 松岡外相が帰ってからこの問題の進行が渋滞するに至ったのであります。松岡外相の帰京の日である四月二十二日の午後ただちに連絡会議を開いてこれを審議しようとしましたが、外相は席上渡欧の報告のみをして右案の審議には入らず、これは二週間位は考えたいということを言い出しました。これが進行の渋滞を来した第一原因であります。外相はまた、この了解案の内容をすぐに独逸大使に内報しました。これがやはりこの問題の渋滞と混乱の第二の原因となったのであります。なおその他外相は

(A)回訓に先だち欧州戦争に対するステートメントを出すことを主張し
(B)また日米中立条約案を提案せん

としました。これらのことのためこの問題に更に混乱を加えたのであります。

 松岡外相のかくのごとき態度を採るには色々の理由があったと思われます。松岡氏は初めはこの了解案はかねて同外相がやって居った下工作が発展してこのようになって来たものであろうと判断しておったが、間もなくこの案は自分の構想より発生したものではなく、また一般の外交機関により生れて来たものでもないということを覚知するに至りました。それがため松岡氏はこの交渉に不満をいだくようになって来ました。また松岡外相は独伊に行き、その首脳者に接し三国同盟の義務履行について緊切なる感を抱くに至ったことがその言葉の上より観取することができました。なお松岡外相の持論である、米国にたいし厳然たる態度によってのみ戦争の危険が避けられるという信念がその後の米国の態度により益々固くなったものであると私は観察しました」

 という国内事情の混乱もあったのです。このもたつきは日本にとって痛かったのは事実です。また、大日本帝国憲法の欠陥として、首相と大臣が同列であったことがここで出てきています。

 次回は、このことについて、やっと修正案をまとめて、米国に提案したところを解説します。

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このページは、宝徳 健が2010年10月11日 00:18に書いたブログ記事です。

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