誰にでもわかる大東亜戦争の真実

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 このシリーズは右のカテゴリー「日本の正しい歴史」に格納されています。  東京裁判が成り立たなくなるためGHQ総司令官 ダグラス・マッカーサーが闇に葬った「東條英機宣誓供述書」を解説し、大東亜戦争が侵略戦争などではなかったという、至極当たり前のことを証明しています。

 「第三次近衛内閣の総辞職」です。この部分はとても長くなっています。七十~七十七までです。七十三を抜粋しています。今日は七十三の最後の部分です。もちろん、歴史の裏話も有りです。

 及川海相の意見―外交による成功の目途の有無は総理に一任しようでないか。しかし、日本は今や和戦の関頭(かんとう)に立っている。戦争をするならば今が好機である。もし、開戦するということならばただ今これを決められたい。開戦を決定せずして外交妥結の見込みありとし二、三ヶ月も経ちその後に戦争というのでは海軍は困る。外交で行くならば徹底的に外交に徹すべし、というのでありました。しかし妥結の目途並びに妥結の方法については、なんら述べられないのであります。すべて総理一任ということでありました。以上のごとくで意見が一致せず、そこで私の提案で一の申し合わせを作りました。すなわち

「一、駐兵(中国)ならびにこれを中心とする諸政策は変更せず。

 二、支那事変の成果に同様を与えず。

 以上を前提として外交の成功を収める。しかも統帥部の庶幾(しょき)する時期までに成功の確信を得てもらいたい。この決心を持って進む間は、作戦の準備はやめる。外相においてこれができるかどうかを研究すること」

 この申し合わせは書面としては存在しません。しかし、右提案せることは昭和十六年十月十二日木戸日記法廷証第一一四七号により傍証せられます。

【解説】

 まずは、前回の続きからですね。日本は常に、ソ連(当時はロシア)に翻弄されたという話でしたね。詳しくはいずれ書きます。これだけでも、ひとシリーズ書けますので。日露戦争までさかのぼって話しますね。

 明治三十三年(1900年)に北清事変というのがありました。これは、清の義和団の乱において、北京にいた各国慰留民が、乱に参加した清国兵に囲まれて皆殺しにされかかった事件です。各国がその救助に軍を出しましたが、その中心となって北京を開放したのが日本でした。そのとき、ロシアも大軍を派遣しましたが、乱の鎮定のためにはほとんど働きませんでした。にもかかわらず、ロシアは、平定後も、満州に居座っていたのです。どんどん兵力を増やして、事実上、満州はロシア領になりました。支那の役人が満州に行くときは、ロシアの許可が必要だったのです。

 日露戦争とは、日本が満州でロシアをやっつけて、支那に返してあげた戦争だったのです。なのに、支那は日本をぼろくそに言います。

 当時、日本は、ロシアに抗議しました。ロシアは一切聞く耳を持ちません。せめて朝鮮には入ってくれるなと頼みました。ロシアはそれも無視します。北朝鮮に軍港を作り、鉱山の発掘権や森林伐採権まで得ます。日本は、ロシアに朝鮮を取られると、樺太と朝鮮の両方からロシアに攻め込まれます。これは、事実上、国防が不可能になるということを意味しています。

 日露戦争で日本が勝利し、満州を支那に返してあげました。日本は紳士ですね。でも、なんとなんと、ロシアと清国には密約があったのです。ひどいでしょ。返す必要はなかったのです。それに、清は、満州族が作った国です。清以外の王朝では、満州を支那が治めた歴史はありません。

 この話のこのことについてはまた書きます。

 さて、今日の部分の解説です。

 海軍結構ずるいですね。「戦争しても負ける」ってはっきり言えばいいのに。逃げてますね。戦争したくないと言えば、陸軍は兵隊を海に運べないので戦争ができませんでした。近衛首相もずるい。海軍が任せると言ったのだったら、外交戦略で行くと言えばいいのに。まあ、あの戦争をしなくても、日本は、アメリカの属国みたいにはなっていたでしょうけど。また、もし戦争をしなかったら、ニ・ニ六事件のようなものも起きたかもしれません。

 日本はあの戦争で、アメリカ以外には負けていないのです。支那なんて、三つぐらいの政府が、内戦を繰り返して、それを日本が、第一次世界大戦が起きている間に、まとめてあげようとしたけれど、日本を戦争に引きずり込みたいモスクワコミンテルンが、支那のそれぞれの政府に間者を送り込んで、日本を挑発したというのが支那事変の真相です。

 日本はなんとか支那を強くして、一緒に欧米と対抗しようとしました。アジアの国を解放しようとしました。なのに・・・。おひとよしな国です。外交がへたな国です・・・。悲しい。次回、ユダヤ人の話を少しして、いかに日本がおひとよしかを解説します。

 どうすればよかったんだろう・・・。日本は当時どうすればよかったんだろう・・・。いずれ私の考えを書きます。

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このページは、宝徳 健が2011年2月18日 05:53に書いたブログ記事です。

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