誰にでもわかる大東亜戦争の真実

| コメント(0) | トラックバック(0)
 このシリーズは右のカテゴリー「日本の正しい歴史」に格納されています。  東京裁判が成り立たなくなるためGHQ総司令官 ダグラス・マッカーサーが闇に葬った「東條英機宣誓供述書」を解説し、大東亜戦争が侵略戦争などではな かったという、至極当たり前のことを証明しています。

 今日から「東條内閣の組閣」です。ここも長い。七十八~九十までです。今日から八十です。八十は長いので、数日に分けて書きます。歴史の裏話の続きも書きます。
八十
 私としては、組閣の大命を拝するというがごときは、思いも及ばぬことでありました。田中隆吉氏は佐藤賢了氏が、阿部、林両重臣を訪問して「登場を総理大臣にしなければ陸軍の統制はとれぬ」と述べた旨証言しました。すでに記述したごとく私は近衛内閣の後継内閣は東久邇内閣でなければ磁極の収拾ははなはだ困難であろうと考え、この意見はすでに近衛総理および木戸ない大臣にも伝えたのであります。私は十六日夜、この意見を阿部、林両重臣に伝えることが適当であると考え、佐藤軍務課長をして阿部、林両重臣にこの意見を伝達させたのであります。佐藤氏は私の意見をのみ伝達し、両重臣は私の意見を聞いただけで彼らの意見を述べなかった旨を私に報告しました。

【解説】

 東條英機は、現在ではかなり悪者にしたてあげられています。事実、私もこの宣誓供述書を読むまではあまり好きな人間ではありませんでした。不明を恥じます。私自身30歳くらいまでは、日本は好きだったものの、大東亜戦争は侵略戦争だと思っていました。30歳のとき、あるきっかけで、国会図書館で本をむさぼり読んだ際に、「あの戦争は侵略戦争ではなかったんだ」と知りました。かなりショックでしばらく自分の考え方を変えることができませんでした。それから正しい歴史を勉強し始めました。教育やマスコミというものにだまされてはいけませんね。

 さて、支那の話の続きです。
 支那では、二十世紀になると、戦乱と飢饉はさらに拡大の一途をたどりました。満州事変から支那事変までのあいだ、水害と旱魃(かんばつ)は大地を襲い、その被害者は億単位に上っています。日本人の人口が何回もなくなった規模です。1930年~32年の西北大飢饉は、中華民国の広報によると餓死者は一千万人で、飢民の間では人肉食が起きました。日本政府も事態の深刻さに調査団と救援団を派遣していました。日本の救援団は、支那事変のさなかにも、戦場を駆け巡って各地の深刻な大飢饉への救援活動を行っていました。

 では、戦後にも続いたその飢饉を支那の共産主義政府はどのようにして日本の責任にしていったか。次回書きます。
 
 日本の新聞は戦後、支那の共産主義政府に脅されます。支那の都合の悪いことを書く日本の新聞社は、支那には支局を置かせないという脅しです。朝日新聞は、尻尾を振って支那に迎合しました。他の新聞は、最初は、拒否しました、次々を篭絡します。ひとつだけ、産経新聞だけが、拒否し続けました。産経新聞だけ支局がないのは都合が悪いので、しばらくして支那が折れました。支那との付き合いは、突っ張ることからはじめなければ駄目なのです。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.soepark.jp/mot/mt/mt-tb.cgi/2143

コメントする

月別 アーカイブ

Powered by Movable Type 4.261

このブログ記事について

このページは、宝徳 健が2011年2月26日 23:33に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「和歌」です。

次のブログ記事は「出光佐三語録」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。