誰にでもわかる大東亜戦争の真実

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 このシリーズは右のカテゴリー「日本の正しい歴史」に格納されています。  東京裁判が成り立たなくなるためGHQ総司令官 ダグラス・マッカーサーが闇に葬った「東條英機宣誓供述書」を解説し、大東亜戦争が侵略戦争などではな かったという、至極当たり前のことを証明しています。

 「東條内閣の組閣」です。ごめんなさい。七十八~九十までではなく、七十八~八十二までです。今日は最後の八十二。もちろん歴史の裏話ありです。
八十二
 右大命を拝したその日の夜六時半頃、陸相官邸にて組閣に着手しました。組閣に当たって右の方針にのっとり私一個にて決定し、何人にも相談しません。しかし、助手が要るから、まず、内閣書記官長の選定を必要としました。同夜八時半頃、星野直樹氏に電話し、来邸を求めてこれを依頼したのであります。星野氏は第二次近衛内閣の閣僚として同僚であり、その前歴の関係においても、才能の上においても適任と考えました。星野氏は来邸してただちにこれを受諾してくれました。電話で決定したのは、橋田(文相候補)、岩村(法相候補)、井野(農相候補)、小泉(厚相候補)、鈴木(企画院候補)、岸(商工候補)の諸氏であります。招致して懇談の上受諾したのは、賀屋(大蔵候補)、東郷(外相候補)、寺島(逓信、鉄道候補)、湯澤(内務次官候補)の諸氏であります。この中で東郷氏と賀屋氏は今後の国政指導は極力外交交渉で進むのかとの意味を駄目押ししました。私は白紙還元の旨を説明し極力日米交渉の打開をして行きたしとの意を答えました。湯澤氏は次官のことでありますが、私は内務大臣兼務でありますので大臣級の人物を要したのであります。同夜中に海軍大臣より海相推挙の返事は来ません。翌朝(十八日)及川海相より嶋田氏を推挙するとの確報を得、続いて嶋田氏が来邸しました。この時に、対米問題は外交交渉で行くのかという点と国内の急激な変化を避けられたしとの質問と希望がありました。私は、前の質問に対しては、白紙還元の説明を与え、後の希望に対しては、もちろん国内の急激変更はやらぬと言いました。嶋田氏はこれを聞いて後、海相たることを承諾しました。
 十八日朝は靖国神社例祭日で、午前中は天皇陛下は御親拝あり自分も参列しました。午後一時閣員名簿を捧呈、四時親任式を終わり、ここに東条内閣は成立いたしました。

【歴史の裏話】
 昨日の続きです。戦前の制度的欠陥です。陸相と海相は、現役の将官に限るという規定がありました。特に陸軍の場合は、後任の陸軍大臣は陸軍の三長官の推薦で決まるのがならわしでした。三長官とは、陸軍大臣、参謀総長、教育総監です。

 これが陸海軍大臣現役武官制という悪名高き制度です。なぜ悪名高いのか。次回書きます。

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このページは、宝徳 健が2011年3月 5日 10:07に書いたブログ記事です。

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