出光佐三語録

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 弊社月刊誌 士魂商才第三十九号 平成二十三年新年号に掲載した内容です。

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章 養成

  ―資本よりも組織よりも、人間である

資本よりも組織よりも、人間である

  私共が石油業を始めましたのは、いまから四十六年前、北九州の門司で始めたのでありますが、そのときはささやかな店で、ただ油の販売をやっていたのであります。

  いつとはなしに、仕事も人間が本位である。資本よりも人間である、組織よりも人間である、規則、法律というものも人間によって生きる。もし人間が悪い場合は、いろいろな間違いが起こってくるということに気付きまして、私共は自分を修養し、その修養した人が一致団結して、人間の真の力を出すいわゆる「人間尊重」というような言葉を使って、今日まできているのであります。(昭和三十二年五月、『徳山製油所竣工式あいさつ』より)

                                                                   

話を、内地に戻す。

大正十一年九月に、門司の出光本社は、社屋を二十三銀行門司支店のビルの二階に移転

した。同じ電車通りで、ほんの百メートルほどの近所だが、今度は西本町三丁目である。

 新築の、三階建てのビルであった。当時門司では、商船ビルと毎日新聞社ビルと、それからこの二十三銀行支店ビルを指して、『三大近代ビル』と呼んでいた。二階が出光、一階が銀行で、後に合併等によって改名して、『大分銀行』となる。三階はまた他の機関によって使われていた。

 この頃は、出光はその後の運命を決するような『登り坂』の最中であった。但し、その坂道は急勾配に過ぎて、ふところ具合にしぼっていうと、いつもいつも『火の車』であった。

 経営は、小さいながらに順調であった。にもかかわらず、なぜ『火の車』だったのかというと、出光が神戸高商の内池教授譲りの『大地域小売り業』という理想にのめり込んで、目の前の『金儲け』を拒否するからであった。

 それらの経緯を語る前に、大正十一年という年が、出光にとってどんな時点だったかということを、いま少し説いておこう。前年の大正十年の六月に、出光は創立十周年祝賀行事を行なって、内外に記念品などを配っている。石の上にも三年というが、十年も経つと、組織はどうやら一人前に育ってくるものだろう。同じ年に博多に支店を設けている。

 親会社の日本石油にも大異変があった。創業以来の長い競争相手だった宝田石油と、対等合併したのである。

 日本石油は、日本では最も古い、最も由緒の正しい、そして最も規模の大きい石油会社であった。日本では唯一の石油産地といえる新潟県に、土地の名望家、資産家などを網羅して株主にして、明治二十一年に誕生したもので、その後、順調すぎるほどに順調な経営を続けて今日に至っている。いわば保守的、体制的な会社である。

 これに対して宝田石油は、出身は同じ越後だけれど、日本石油とは対照的な育ちであった。日石とほぼ同じ年代に、長岡在の山の中に一つだけの油井戸を持つ零細石油会社として誕生し、悪戦苦闘を続けて、周囲の同じような零細会社の合併をくり返して成長したもので、合併会社数は百を越え、それだけに野生的、進取的であった。一面がさつだといわれるのも故なしとしない。

 長年にわたって両社の合併は論議されてきたが、世界大戦が終わって石油会社の経営にも影がさし、かつ国際的にも競争力の強化が要請される時代になって、ついに実現したわけであった。

 その合併は、大局的には出光には何の影響もないのが当然だが、日常的には支店長の異動―宝田系からの来任などがあって、出光も小波瀾には出くわした。

 さて、問題の『大地域小売り業』である。その要旨は、広い地域にわたって多数の需要者に、直接商品を届けるものである。そうしないと需要家と供給者の中間に立って、双方に利益を与えるという主旨は達せられない。すると、必然的に多数の支店が要る。この時点での出光は、内地では下関、大阪、博多に、満州では大連に、華北では青島に、シベリアではウラジオストックに、朝鮮では京域に、台湾では台北、基隆にと、『駆け出し』の出光商会には重荷すぎると思われるほどの、数多くの支店をすでに抱えていた。

 必然的に経費が多くかかった。また、実際の商品も、それぞれの支店に相当量置かねばならないから、資金が寝る。そのうえ、売れたからといって、早速に金になるものではない。

 当時の出光の支店で、売れた商品がどんな具合に現金化していったかを見ると―例えば、最大の顧客、満鉄である。出光は日石の倉庫から出してもらって、自社の倉庫へ入れる。それから満州へ運ぶわけだが、その間の日数のロスは、なるべく出さないように努力しなければならない。

 大連の埠頭に着いてから、満鉄の倉庫に納まるまでに、かなりの日時がとられる。『かなり』というのは、時には一ヵ月にも及んだという。倉庫に入ってから見本を取って、中央試験所に持って行く。そこで満鉄の規格に合っているかどうか分析試験されるが、それにも悪くすると、一ヵ月以上もかかる。

 その分析試験に合格したとなって、いよいよ金を払ってもらう事務手続きに移るわけだが、これが図体の大きさに正比例して慢々的で―こうして荷積みしてから、金を受け取るまでには、半年くらいかかることはざらであった。

 ところが、商品の出元の日石では、荷物を出してから決済まで、だいたい一ヵ月くらいである。満鉄から金を受け取るまでにはあと数ヶ月かかるが......それは出光が立て替えて、支払わなければならない。出光にはむろん、そんな金はないから、銀行で借金するしかない。

 ―こうして出光は、成績がよければよいほど、いっそう火の車であった。でも、そんなに『寛大』に貸してくれる銀行が、果たしてあっただろうか?

 一人一人を教育する佐三

 銀行との『やりとり』に移る前に、これらの時点での出光商会の『実態』について、ごく概略だが述べておこう。

 その頃の社員数は五十名ほどで、うち本店に二十名ほどいた。博多なんかは多い方だったが、それでも支店長の下に支店員が五、六人だった。他の支店では二、三人だったのだろう。

 店員の中には、後に出光社内で名を成した者は多数いるが、全国的には地名になったものといえば、初代博多支店長の安座上真くらいであろう。安座上は運輸業から転じて来て、のちにまた運輸業に帰って行き、戦後の長い期間、日通社長を勤めた人物である。

 出光は、社員の訓練はきびしかった。最初のうちの入店は丁稚ばかりだったので、手取り足取りだったが、この頃になると、博多やその他の商業学校や、また専門学校を出た者も稀に入ってくるようになっている。

 初期に丁稚に来た者には、出光自身ですべて『いろは』から教えた。

 例えば、掃除の仕方。ノブや取手を磨く時は、布を持ってごしごしこするよりは、布を伸ばして引っかけて、両手でしごけばいい。それを自分でやってみせる。

 売上伝票や出荷伝票などは、カーボンを入れて四枚複写であったが、出光は直接自分で、年若い丁稚たちの書いた伝票を全部見る。出来の悪いのは、その場で注意する。

「出光の商売は、君たちの書く一枚一枚の伝票から成り立っているんだぞ。そこのところを忘れてはいかん」

 いつも、こういっていた。

 稲用吉一は、当時、安座上の下へ博多支店の丁稚に入ったが、或る午後、支店長に呼ばれた。行ってみると、目の前に一枚の伝票を出された。

「覚えがあるだろう。よく見たまえ」

「はい。一昨日出した伝票だと思いますが......」

 一昨日出して、門司へ送られ、出光が見て、また送り返されてきたものだろう。赤鉛筆で、大きな字のなぐり書きがあった。読んでみると、

『字か絵か』

と、出光自身の筆跡であった。

「申し訳ありません。忙しかったものだから慌てて......字か絵かわからんような字を書きまして......」

「うん。これからよく注意するんだ」

 安座上は、特別には叱らなかったが、稲用は恥ずかしくて、頬から火が出る思いであった。そして、

(店主は、こんなに注意しておられるのだ!我々も、たるんではいかん)

 子供心にも思い締めたものであった。

 

 休みは盆と時化の日だけ

 このころ、出光商会の仕事は、内地では殆どが漁船や運搬船への燃料油の補給だったから、門司の本店も博多の支店も、仕事にはさしたる違いはなかった。

 機械漁船は、日に日に激増を続けていた。

 博多での最大の得意は、徳島県九州出漁団玉之浦連合組という団体であった。もともとは長崎県の五島の最南端の玉之浦というところが基地だったので、この名前があるわけだが、それでは不便すぎるというので、いつか大挙して博多へ移ってきたものであった。もちろん福岡市も、港を改修したりして誘致に努力した。

 そのほか島根県の八束船とか、山口県の船団とかがお得意であった。

 これらの漁船は、朝暗いうちに―二時か三時ごろに魚を積んで入港してくる。それを迎えて注文をもらうわけだから、こちらも暗いうちに、注文受けに行く。そして午前中は、油の積み込み、午後は集金に回り、夜、伝票の整理や、記帳をする。そして月末が、計算書の作成である。

 以上が毎月の仕事で、日曜、祭日も休みではなかった。休みはお盆と、時化の日だけであった。

 こうして関門港内、博多港内の仕事が主力だが、『行商』もあった。宗像郡、糸島郡などはバスや自転車で回って注文を取り、恵比寿丸というのを持っていて、これに十八リットル缶を満載して、佐賀県、長崎県と半月がかりで回った。壱岐や対馬へも回った。

 関門や博多港内の油の販売が、出光の独占同様になったのは、例の弘の考案による計量船の存在が大きく役立っていた。博多で使ったのは下関で造った鋼船であった。

 出光の社員教育は、そんな日常訓練だけではなかった。店員は、初め店の二階に合宿させていたが、それは東本町二丁目から二十三銀行支店の二階への移転の時に外へ出て、別に新しく一軒の社員寮を持ったのである。

 社員寮について、出光は次のように書いている。

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こんにちは!いつも楽しく出光系の記事を読ませていただいてます。
私は出光リテール九州の者ですが、本当に佐三さんの生き様に感動しました!
最初は、出光人がとにかく好きで入社したのですが、佐三さんの凄さがあまりにすごくて、私も人生を出光で鍛錬しております。
ぜひ楽しみに読ませていただいてますので、これからもよろしくお願いします。

 メール感謝します。初めましてですか? 了解しました。これからも、掲載していきますね。続きがあります。もし、よろしければ、弊社の月刊誌を送りますので、メールください。

houtoku@soepark.jp

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このブログ記事について

このページは、宝徳 健が2011年3月 5日 10:24に書いたブログ記事です。

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