親父の親父の物語

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 私の親父(佳男)が、自分の親父(私の祖父:義一)のことをまとめて書いたものを紹介しています。これは、親族一家にひとつ、配られました。配ったのは、平成15年6月7日です。この日は、関西方面の親族の「寳德義一生誕百年祭」でした。

 昨日の続きです。

 姉さん、正是と佳男は、日本内地に帰ってきてからも、あの当時の級友や同窓生との交流が続いていますが、卓と治は、まったくそれがなく、「玉川」がそれに代わっています。
 佳男は、甲飛(海軍甲種飛行豫科(よか)練習生=豫科練(よかれん)を志願して、この写真のときは、愛媛県の松山海軍航空隊(松空:まつくう)にいました。京城(そうる)で一次試験―「合格、甲の下」。鎮海(ちんかい)で(旧海軍の要港、釜山に近い)二次試験。松空で入隊前の試験がありました。ボクはこの試験は2番だったらしく。第23分隊2教部―100名の"組長"になりました。1教部組長は、柴君(戦後、東大を出て弁護士―元山中)。「海軍飛行豫科練習生心得」には、組長ハ練習生ヨリ司令之ヲ命ス。組長ハ教室ニアリテハ最後席右側ニ位置スヘシ、などとあります。

 興工の同級生、大川正明君(朝鮮の人)は、3年生のとき、陸軍少年航空兵を志願しました。昭和20年、沖縄に特別攻撃隊(特攻)で突っ込み散華したとのハガキがお母さんからもたらされました。ボクは、「必ず佳男も死ぬ・・・」と返事したところ、「誰も死ねとは言っていない」との返事がきました。鹿児島県・知覧の「特攻記念館」には、大川正明君の写真が大きく掲げられています。大川君は、寳德家が抑留前に住んでいた「西湖津(せいこしん)」にいました。

つづく

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このページは、宝徳 健が2011年8月 1日 08:23に書いたブログ記事です。

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