支那紀行 その7

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 昨日の記事写真を見た読者が「なぜ、学生時代と今とこんなに体型も顔も変わるのか。顔なんて今の半分じゃないか」というご意見をいただきました。ほっといてください。

 続けます。
 ビクトリア・ピークに行った日の夜は、ちょっとエッチな遊びもしました。内容省略。

 次の日は、香港島に遊びに行きました。あまり覚えていないなあ。ペニーシュラホテルでケーキセットも食べたけど、ここが香港だったか九龍だったかは覚えていません。その日のハイライトはなんと言っても、九龍街の裏道・・・。

 ニューヨークの怖い怖い裏道を一人で歩いて、危機を切り抜けた経験を持つYTJ(GではなくJでした)は、私に海外の恐怖を教えようといたずらしたのでしょう。

 結構怖かったですね~。

 その頃の九龍といえば、ブティックで、日本女性が、試着していたら、試着室の向こう側がドアになっていて、そこが開いて、連れ去られるということもあったと聞いています。ご両親が必死に探して、裏世界にも手を回して、やっと見つかったときは、手足を切られて、目もつぶされていたそうです。命があっても・・・。

 だいたい支那人というのは、拷問が大好きです。日露戦争のときに、山県有朋が、兵士に「支那人の拷問は残酷極まりない。捕虜となったら、死ぬような拷問(筆舌に尽くし難いので、ここでは書きません)に会うので、生きて辱めを受けるぐらいなら、頼むから自決してくれ」と頼んでいます。同じ人間とは思えないやり方です。

 まあいいとして、表通りでこれです。裏通りは、本当になんともいえない怖い空気がありました。誰も歩いていないのですが、人の気配をかなり強く感じました。「ここで死ぬのかも。まあ、戦ってそれでもいいか」と若かったので、本気で思っていました。バカですね。

 裏道の食堂に入りました。表通りのように、メニューの英語表記など一切ありません。何を頼めばいいのかわからないでいると、海外経験が豊富なYTJが日本語で、「隣のあのおっさんが食っている同じものを、こちらにもください」と、隣のおっさんが食べているものを指差していいました。
「なるほど」。

 海鮮鍋でした。ものすごくおいしかった。

 さて、次の日はいよいよ、ビザがもらえる日です。ビザをもらったらすぐに支那に入ることにしました。ハプニングはまだまだ続きます。

九龍街で(これは表通りです)

kyuryutakeshi.jpg

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このページは、宝徳 健が2011年11月12日 06:05に書いたブログ記事です。

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