支那紀行 最終回

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 長らくご愛読いただきました支那紀行も本日が最終回です。昭和五十八年(1983年)二月に、親友のYTJと支那二十数日間の旅に行きました。個人旅行です。当時は、支那への個人旅行は、日本ではビザがとれませんでした。香港に飛んでビザをとり、北京でビザ延長をしました。

 香港→広州→長沙→西安→北京→上海とまわった旅も上海が最終です。北京から20時間の電車にゆられて、上海に着きました。
 ところが上海のことをほとんど覚えていないのです。当時のこのひどい支那でも、上海は、どこの国の料理でも食べられるし、娯楽施設(ボーリング場など)もありました。物価も他の都市に比べたら異常に高い。つまり普通の国の普通の街でした。
 
 だから、不自由に感じないので、記憶に残らないのでしょうね。これって、人間に潜む危険性です。恵まれすぎると脳を使わなくなる。まさに今の日本ですね。不合理や不都合が人間を鍛えるのですが、今の日本は、極端にこれを嫌う傾向にあります。人間が弱くなっているので。ちょっと自分に不都合な何かがあると、すぐに「自分は不幸だ」「どうしてこうなってしまったのか」と人のせいにして、自分を擁護しながら、不平不満をいい、困難から逃げようとします。気を付けないと。

 上海でかろうじて覚えていることを書きします。

①日本人サラリーマンに住んでいらっしゃるホテルの部屋でごちそうになった。ここで、日本では知ることができない支那の真実をたくさん教えてもらった。「自分は、支那経済が破たんして、日本に支那の難民が行かないように経済支援をしている」ともおっしゃっていました。

②私たち二人は、ホテルで食事をすることが少なかったので、外で、外貨兌換券(ハイホエ)を使い、おつりを人民元でもらっていました。たくさんたまった人民元で、最後ホテルの清算をしようとすると、「お前らは外国人だから人民元で払うことはできない」とホテルのフロントで言われました。「これしかもっていないときはどうするのだ(本当は持っていましたが)」と言ったら、ものすごく困った顔をして、「パスポート番号と名前をここに書け」という結果になりました。

 そのぐらいかな。

 さて、帰りの航空券です。日本からは香港往復の格安チケットを買っていましたが、復路は捨てましたので、何も持っていません。旅行会社に行ったのかなあ、空港で直接買ったのかなあ。おそらく後者だと記憶しています。上海―長崎の切符を買いました。ここでも「何で、お前たちのような外国人が帰りの航空券を持っていないのか」とさんざん聞かれました。驚くほど安かったのを覚えています。

 帰りの飛行機の中でびっくりしました。飛行機の中でも、支那人は、うがいをして、床にそれを吐いたり、痰を床に吐いたりするのです。きったね~。機内食もまずかった。列車の中のチンジャオロースが結局は一番ごちそうでした。

 支那には、その後1回行っています(4年後ぐらい後、社会人になって)。その時は、北京―蘇州―杭州―上海―北京でした。もちろん団体旅行なので、不自由は一切ありませんでした。だから、あまり記憶に残っていません。

 福岡の友達に、車で長崎空港に迎えに来てくれるよう頼んで、無事長崎空港に着いてから福岡に行きました。その友達のご両親に福岡の稚加榮で、ふぐのフルコースをごちそうになり、支那の話をたくさん聞いていただきました。

 さて、次はどのシリーズを書こうかなあ。東條英機もまだ中途半端だから続けないと。聖書も書きたいなあ。心理学もしばらく書いていない。ブログ書くの楽しいなあ。過去、一度壊れてしまった時の記事の復活もまだです。2007年7月~2009年4月の記事がまだ復活していません。

 ぜひまた、読んでくださいね。

感謝合掌!

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このページは、宝徳 健が2012年1月 1日 00:33に書いたブログ記事です。

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