「つつみ」と「むすび」

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 昨日紹介したJR東海の雑誌「ひととき」4月号に『「包み」と「結び」の精神史』という記事が掲載されていました。國學院大學教授小川直之氏の記事です。
 サラリーマン時代、私はよく風呂敷を使っていました。あの頃は、あまり物を持たなくても外出できた時代でした。携帯電話はサラリーマン終わりの頃はありましたが、出張に行くのにパソコンは持って行かなかったし・・・。その電源とか・・・。なんか、便利のようで不便な世の中です。

 風呂敷にパソコンを包むわけにもいかず、知らず知らずのうちに風呂敷を持ち歩かなくなりました。でも、今でも、「あ~、今、風呂敷があったらいいなあ」と思うことはしばしばです。折りたためるからかさばらない。なんとなく情緒がある風呂敷が、今でも大好きです。

 考えてみたらパソコンや携帯電話は、風呂敷に包めません。昨日までのブログ「家づと」で紹介した「つつむ」という精神性に、パソコンや携帯電話は当てはまらない物なのですね。だから、本来は人間生活に不要なものだと考えています。

 日本では、風呂敷という「包みの布」に長い歴史の中で特段に意匠をしたり「嫁風呂敷」のように特別の意味をこめたりしてきました。「祝風呂敷」とも言う「嫁風呂敷」は、嫁入り道具の一つで、縁起物の松竹梅や鶴亀の絵柄、あるいは正家の家紋を染め出したもので、これには祝儀性や家の結びつきが表現されていました。

 風呂敷は元々「ひらつづみ(平包)」と呼ばれ、その後、入浴の習慣の拡がりとともに江戸時代の十七世紀後半に「風呂敷」と呼ばれるようになったと、小川氏は言います。

 いろいろな意匠や祝儀性が与えられたのは、江戸時代後期に風呂敷が嫁入りなどの祝い事や贈答品の包みに使われるようになったからです。これは贈答文化の成熟であって、日本独特の様式美や型の文化が見て取れます。  私は「ひととき」のおかげで、「つつむ」という言葉が大好きになりました。   つづく

 では、拙首です。

思ひでと ともに願いを つつみこみ 嫁風呂敷と ともに見送る

 正岡子規の「歌よみに与ふる書」を現代語訳しています。「あきまろにこたふ」のつづきです。

 それが理屈めいて聞こえるのは二事二物を相対していう意味ながら、一事一物のみ現し他を略したがるためであって、例えば「獣だに子を思ふ」というはまして人は子を思うということを含み、「羽ばたきもせず」というのは、まして飛び去ろうともしない、ということを含んでいる。「あら鷹も」というのは、そのほかの他かもという意味を含んでいる。しかし、この獣の歌も、鷹の歌も全体的に理屈づめにした歌ではない。悲哀感慨を述べたものとみて差し支えはない。

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このページは、宝徳 健が2012年4月 2日 00:35に書いたブログ記事です。

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