折形 その3

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 現代に残る折形として身近なものに慶長の熨斗袋があります。
 宗教や儀礼に関わるものなので、形の中に多くの約束事があります。慶事は、右前に、弔事には左前に重ねるなど、折り手順にも吉凶が決められています。その背後には、東洋思想の陰陽の教えがあります。太陽と月、天と地、男と女というように世界を構成する物事を陽と陰の二項に分け、それらが対立ではなく和合していると見る世界観です。

 現代に住む私たちは、この陰陽の考え方をなくしてしまい、世の中が乱れるようになりました。陰とは暗いということを意味しているのではありません。役割です。例えば、男は陽、女は陰ですが、最近の男性は陰になりたがり、女性は陽になりがたります。天のバランスがくずれてしまいます。

 熨斗袋には水引を用いて「結び」を施します。「包み」と「結び」は、結界を作りだし、中の贈り物に神秘的な力を与えます。「結び」は、その力が外に溢れ出ないよう封じるとともに、外からの邪気を祓う働きを、内と外にします。

 「包み」が折るという直線で構成されるのに対し、「結び」は水引の曲線で形作られており、ここにも直線と曲線という、相対するものが和合する姿が示されています。

 いいですね~。つづきます。

 では、拙首です。

陰と陽 曲と直とが 相対し 天をあらわす つつみとむすび

 正岡子規の「歌よみに与ふる書」を現代語訳しています。「あきまらに答ふ」の続きです。

 このように言うと、一方で「すらだにも」の如きを許し、他の方にて「も」の一字を蛇蝎視(だかつし:いやがる)するのはどうかとの不審感が起こる。それは次の事で理解できる。

 言うまでもなく、主観的な歌は、たとえ感情を述べたとしても、客観的な歌に比べて、智力を多く使っているのは論を待たない。それは客観的な歌は受け身の官能によることが多いけれど、主観的な歌は、すこしばかり抽象して表しているからである。実朝の獣の歌のようにただ一字の「も」があるときは極めて理屈っぽく殺風景に聞こえてしまう。「も」の響きを聞けば聞くほど、益々理屈臭くなってしまう。これでは前後がつながりにくい歌になってしまう。

 私が、「も」を嫌うのも、客観的にこの字が入ると、意味の強い「も」となってしまうからだ。しかし、前にも言ったように「梅も桜も」というように、二つ以上の相対するものが、文字上に現れる場合には、理屈にはならない。

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このページは、宝徳 健が2012年4月14日 04:43に書いたブログ記事です。

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