藤田東湖

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 昨日「日本人として知っておきたい外交の授業」という本を読みました。著者は中西輝政先生です。もう大学は退官されましたが、この先生の授業は、履修申し込みをしても、抽選になるそうです。そして、抽選ではずれても、学生が聴きに来るので、教室は常に立ち見が出ているそうです。

 私もこの方の考え方には賛成です。
 この本の中で、中西先生は、「歴史観・国家観というものの欠如が日本の大きな弱点になっています。近年、このことをようやく日本人が自覚しはじめました。病気に対してようやく一定の自覚症状が表れた段階と言えましょう。しかし、もしかしたら、もう遅すぎるのかもしれませんが」と述べていらっしゃいます。

 いくら不況になっても国がつぶれることはありません。国民に歴史観・国家観がないと国はつぶれてしまいます。私のブログを読んで「過激だ」と感じる人は、国をつぶす国民であることを自覚してください。

 藤田東湖の正気の歌の続きです。かつての国民はこういう気概、歴史観、国家観を持っていました。これを正気といいます。

或は、鎌倉の窟に投ぜられ、憂憤、正にそ愪愪(ゐんゐん)
或は、櫻井のえ驛に伴ひ、遺訓、何ぞ慇懃なる。
或は、天目山に殉し、幽囚、君を忘れず。
或は、伏見の山を守り、一身、萬軍に當(あたり)る。
承平、二百歳。斯(こ)の氣、常に伸ぶるを獲(え)たり。

【現代語訳1:先日の分の訳が少し抜けていましたので追加しておきます】
南朝は吉野城の戦いたけなわなるとき、元弘三年(1333年)、
護良親王の忠臣、村上彦四郎義光(よしてる)、正気を行う。
帝子(大塔宮・護良親王)の身代わりに、落城さなかの宮の鎧兜をいただき切腹す。

【現代語訳2:本日分】
あるいは、建武新政、護良親王、正気を行う。
足利尊氏の誅殺くわだて、鎌倉は東光寺の土牢に幽閉さる。
深い憂憤、苦悩のうちに弑殺される。時に二十八歳。
あるいは楠木正成、正行(まさつら・11歳)父子の櫻井の駅の別れのとき。
正成四十三歳、正気を行う。生き延びて最期の一人になるとも、帝を護れ、と遺言するは、
なんとねんごろなことか。勝てぬ戦と知りながら、大楠公、湊川にて討ち死にす。
あるいは天正十年春三月、織田信長に敗れた武田勝頼、天目山にこもりいる。
讒言にて幽閉されていたお小宮山内膳正友信、主君の恩を忘れず、これが最期のお供だと、駆けつけ許され殉死した。
あるいは、天下分け目の関が原、徳川家康が股肱の臣、鳥居彦衛門元忠、主君の囮を買って出て、伏見の城を守り奮戦。
二千の手勢とわが身をもって、四方の敵に当たって討ち死にする。享年三十三歳。
以来、太平の世は二百年。かくのごとく正気は、常に伸びるを得てきた。

正気なき われら今人 守れるか このすばらしき 大和の国を

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このページは、宝徳 健が2012年9月 6日 02:28に書いたブログ記事です。

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