興福寺 その4

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 昨日の続きです。

 光明皇后は興福寺を創建した藤原不比等の娘です。
 藤原不比等は、大化の改新で中大兄皇子を支えたた中臣鎌足(のちの藤原鎌足)の次男で、飛鳥時代から奈良時代初めに大きな勢力をふるいました。

 不比等は文武天皇に娘(?) 宮子を嫁がせました。先月このブログで書いた、「かみながひめ」こと藤原宮子です。

 宮子は、のちの聖武天皇を生みますが、聖武天皇に宮子の妹 光明子をめとらせます。この光明子が光明皇后です。皇族と深い関係を結んで、藤原氏は栄耀栄華を極めます。藤原氏の氏寺 興福寺も大きな権力を持ちました。阿修羅はそんな時代の申し子です。

 さて、今回の興福寺再建事業は、藤原氏の栄華を復活させることではありません。最大の目的は、創建のころの文化空間の再興であり、その時代の崇高な祈りの場の復権です。

 興福寺の正式名称は、法相宗大本山興福寺です。法相宗派は、支那の仏教の宗派の一つです。このブログでは難しい話はしませんが、今回の興福寺再建事業では、法相柱(ほっそうちゅう)を立てます。興福寺の根本教義であり、法相宗の始祖たち14人の御影(みえい)をその柱に描きます。

 四世紀終わりから五世紀初めにかけて北インドに実在して、草創間もない法相宗の主柱となtった2日の高僧、無著(むちゃく:アサンガ)と世親(せしん:ヴァスバンドゥ)の兄弟も法相柱に描かれます。



 いいな~。観に行くのがとても楽しみです。いいな~。

天平の 時と思ひが よみがへる その時が今 ここにあらはれ

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このページは、宝徳 健が2013年1月15日 04:20に書いたブログ記事です。

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