再 支那紀行

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 このブログの過去記事が検索できない方のために、過去の記事で再掲要望が強いものを改めて掲載しています。右のカテゴリー「宝徳 健」に格納しています。
 長沙に着いたとこからでしたね。

 不思議なことに、この長沙の写真が一枚も残っていません。あんなにたくさん支那では写真をとったのに。記憶もあまりたくさん残っていません。おそらく5 日ぐらいはいたと思います。なんで、そんなところに5日もいたんだということですが、当時は支那で次に移動しようとすると、とても時間がかかるのです。手 続きとか、チケットの予約とか。さらに私たち二人は、当時の支那では、香港人以外には、ほとんど見られない、個人旅行です。説明するのも一苦労。「ウォー シー リーベン ライライ(だったかな:私たちは日本から来た)」「ウォージャオ リーベンレン(だったかな:私たちは日本人です)」というようやく少し 覚えた支那語で、まず、この言葉を言います。すると支那人は、びっくりします。

 そして、たいてい出てくる言葉が(英語が話せる人がもし いたとしたら)、「I guess you are from Hong Kong(俺がお前たちは、香港人だと思った)」です。もっとも当時の長沙に英語を話せる人などいません。「Anyone speak English?」とホテルのフロント(外国人専用ホテル)で聞いても、 ポカーンとしています。

 長沙の5日は退屈なものだった記憶だけがあります。

 その中でも、ふたつだけ記憶があります。ひとつは、数千年前ぐらいのミイラが展示されている博物館に行ったことです。きれいに保存されています。昔の支那人のレベルの高さがうかがえます。

 料理、セックス、格闘技、医療技術、古典、紙や羅針盤を作った技術・・・。古代支那は世界に先駆けた国でしたし、およそ人間が生きる本能に関しては、非常に貪欲です(料理、セックス、格闘技)。

  でも、それが正しく使われてきませんでした。たとえば、漢の高祖劉邦の正室 呂后。劉邦が死んだ後、劉邦が寵愛した戚夫人の目をつぶし、舌を抜き、手足を 切り落とし、便つぼに投げ込みます。それでもしばらく生きていたというのですから、当時の支那の外科技術は相当高かったのでしょう。でも、こんなことする なんて日本人には考えられません。西太后も則天武后(支那唯一の女帝)も、同じようなことをやっています。

 それと、人を殺しすぎました。それも自国民を。だから、創造性というDNAが失われてしまいました。支那人に自然科学系のノーベル賞受賞者がいないのもうなづけます。

 でも、このミイラはすばらしかった。今でも、頭の中に、写真として残っています。

 次に料理がうまかったこと。つづく。

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このページは、宝徳 健が2013年2月23日 06:14に書いたブログ記事です。

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