吉野の盟約 6

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 吉野宮であることが長年の調査で分かった宮滝遺跡周辺には、天武天皇にまつわる伝承地があったそうです。宮滝遺跡から約一キロ南にある桜木神社は、大海人皇子が大友皇子の兵に攻められたごき、境内の櫻の木に隠れて難を逃れたとされる場所だそうです。
http://narajisya.blog.eonet.jp/photos/uncategorized/2009/02/02/photo_2.jpg

 皇后であった持統天皇も生涯に三十四度も吉野宮を訪れています。その季節を見ると春と秋の行楽シーズンが多くなっています。でも、厳寒期の行幸であることから行楽だけとは言えなかったでしょう。

 吉野宮が造営される十一年前、天智天皇(当時中大兄皇子)が645年6月に起こした大化の改新の直後にそれまで最有力の皇位継承者として蘇我氏のバックアップを受けていた古人大兄皇子(ふるひとおおえのおうじ)が、後継者レースから脱落して出家して吉野に入りました。

 吉野は、政治的な敗者にとっては文字通り「隠れ家」だったのですね。ところが、古人大兄皇子は、半年後に、謀反の疑いで殺されてしまいました。都にいれば即処刑だった人物にとって、吉野は絶対に安全な土地でしたが、それには有効期限があったのですね。

 天武天皇が都から逃れ吉野を隠遁場所として選んだのも、戦略的意味合いが強かったのです。でも、古人大兄皇子と同じ轍を踏むわけにはいかない天武天皇は、タイムリミットを熟知していました。
そして・・・。つづく

いまだ見ぬ 吉野の宮を 思ひながら いにしえ人の 生き方しのぶ

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このページは、宝徳 健が2013年3月 5日 03:31に書いたブログ記事です。

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