真実の日清戦争

| コメント(0) | トラックバック(0)
 この記事は右のカテゴリー「日本の正しい歴史」に格納されています。

 日清戦争は、日本にとっては国家の存亡をかけた戦いでした。では、清はどうだったのか?
 なんてことはない、ただの権力闘争です。清は、確かにアヘン戦争やアロー号事件で痛めつけられましたが、何しろあの国土です。ちょっと小競り合いが起きた程度でしか清王朝は考えていませんでした。日清戦争に敗れたことはかなりショックだったみたいですが、それはまた後で。

 今は、日清戦争がはじまる前の話をします。

 清にとっての日清戦争とは、西太后派と光緒帝派の権力闘争が清にとっての日清戦争でした。

 清朝末期の五十年間、すなわち十九世紀後半からニ十世紀初頭にかけては、おおよそ西太后が皇帝に代わって市場の権力を握っていました。1861年、当時五歳の、西太后の子同治帝を即位させ、自分は摂政となり、その後の日清戦争当時の光緒帝は、西太后の甥であり、自分の摂政政治を円滑にするために、わずか四歳で即位させました。

 光緒帝は、成人後、親政を行いましたが、人事行政権は西太后に握られていいて、重要な政令も西太后の意向次第でした。その西太后に光緒帝が挑戦したことから起こったのが、皇帝派と西太后派の権力闘争です。

 日清戦争開戦直前、やはり両派は和戦をめぐって、対立しました。開明的な皇帝派は主戦派で、西太后派は和平派でした。

 西太后派がなぜ、和平を主張したのか。これが驚くべき事実なのです。つづく


トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.soepark.jp/mot/mt/mt-tb.cgi/4525

コメントする

月別 アーカイブ

Powered by Movable Type 4.261

このブログ記事について

このページは、宝徳 健が2013年4月 1日 06:19に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「再 未来日本昔話 4」です。

次のブログ記事は「一票の較差はあっていい(三月三十一日の日誌)」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。