真実の日清戦争

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 昨日、西太后派は和平派だったと申し上げました。

 でも、それは東洋の平和を希求するという平和論者ではありません。もしそうであったなら、小国日本をわざわざ開戦にまで追い詰めなかったでしょう。

 では、どんな事情があったのでしょうか。
 なんとなんと、西太后の還暦祝典を執り行わなければならないという事情があり、西太后の宮殿として頤和園(いわえん)が造営中でした。この造営には莫大な費用が掛かり、軍艦建造費もそのために削減されていました。だから戦争どころではなかったのです。こんな國です。

 我が國では、明治天皇が宮廷費を削減して、軍艦建造費に寄贈されました。これをみた國民が、寄付をしました。積もり積もって莫大なお金になりました。えらい違いです。

 李鴻章という人物は御存じの事と思います。下関条約で日清戦争の講和条約を結んだ時の清の代表です。中学校か高校で習いましたよね。

 この李鴻章という人間は、西太后派です。ですから、和戦派というよりも、非戦派でした。でも、彼は、北洋大臣とある地区の総督を兼ねていたので、いざ、戦争になると彼の北洋陸海軍が出動せざるを得なくなりました。

 孫子の兵法に五事があることは、以前、このブログで申し上げました。

 「道」「天」「地」「将」「法」です。この中の「道」は、気持ちが一体となっているかどうかです。この点で、もう、我が國と清との違いがみられます。

 天と地ほどの軍事力の差があった我が國と清です。世界のどの國も、我が國が負けると思っていました。でも、兵法でいうと、我が國は勝つべくして勝ったと言えるでしょう。

 清の政治は、下関条約から益々乱れます。つづく

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このページは、宝徳 健が2013年4月 2日 05:21に書いたブログ記事です。

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