東北と藤原氏

| コメント(0) | トラックバック(0)
 壮大な藤原氏の力の付け方を紹介しています。
 藤原氏は奈良時代に多くの一族を東北に送り込みました。もし、藤原氏が宮廷内で確固した基盤を築いていたらそんなことはしなかったでしょう。鎌足-不比等と続いて、不比等に四人の子供がいます。鎌足の孫です。

 長男 武智麻呂(むちまろ)、次男 房前(ふささき)、三男 宇合(うまかい)、四男 麻呂です。このうち、宇合と麻呂が東北に赴任しました。

 実は、この四人は七三七年に大流行した天然痘で全員一度に亡くなりました。一族の直系が亡くなったのに藤原氏はすぐに復活します。そのカギが東北にあります。

 話は少し戻りますが、ワクワクドキドキする話となります。

 多賀城はご存知でしょうか? ↓多賀城跡
多賀城跡

 奈良時代の八世紀前半におかれた城柵です。当時の陸奥國(宮城県南部と福島県)の國府とともに、対蝦夷の軍政を担当する鎮守府が設置されました。当時は宮城県北部から北は「國外」です。朝廷は多賀城を拠点に北へ北へと領土をしろ下ていきました。

 申し上げるまでもなく、陸奥は我が國有数の穀倉地帯です。金も出ます。領土を拡張しようとするとどうしても地元の民族との争いが起きます。欧米や支那のように、大虐殺をすることを好まない我が國です。平定するためには、愚鈍な指導者を多賀城に送り込むわけにはいきません。

 藤原氏一族の中核が東北に送り込まれした。そして、藤原氏は力を蓄えていきます。つづく

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.soepark.jp/mot/mt/mt-tb.cgi/4635

コメントする

月別 アーカイブ

Powered by Movable Type 4.261

このブログ記事について

このページは、宝徳 健が2013年5月15日 04:44に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「三大必読文献(五月十二日の日誌)」です。

次のブログ記事は「再 未来日本昔話」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。