北清事変の真実10

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 北清事変の時に、欧米各國を守っただけではなく、支那を北清事変後の各國の略奪・狼藉から守ったのも我が國 日本でした。

 なのに・・・。
 「穏やかな」占領が続いた我が軍担当地域では、やがて日本人の排斥を訴えるビラが支那人によって街中に貼られるようになりました。これは血の弾圧と略奪と強姦が行われた他國の占領地区には観られなかった現象です。

 つまり、支那人には、残酷な統治者には柔順だが、優しい統治者には増長してはむかうという性格があるからです。異民族統治に慣れた西洋人は早くからこれを見ぬき、排外運動には容赦ない武力弾圧を加えて支那人を屈服させています。そして支那人に畏敬の念さえ植え付けることに成功しています。

 ところが「情」の民族であり、何事も「話せばわかる」と考えてしまう我が國はそれができませんでした。

 我が國の大陸政策最大の失敗は「東洋の同義」つまり「優しかった」ことです。支那人への名状ない優しさが禍し、自ら墓穴を掘ったことにあります。だから支那人の排外運動の対象は、侮っても優しくしてくれる優しい日本人へと絞られていきました。そして支那事変へと突入していきます。

 これは現代の外交でもとても大切なことです。民主党政権の支那への対応を見てもわかります。現代の支那が、ことさら我が國の過去を責めたて、西洋人には手心を加えているのは、この時に植え付けられた畏怖の心理が根強く残っているからです。

 現代支那は、我が國がなければ消滅していたかもしれないのです。

 その正しい歴史を、次回からも続けて解説していきます。

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このページは、宝徳 健が2013年6月22日 00:38に書いたブログ記事です。

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