北清事変の真実11

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 北清事変の敗戦が濃厚となった清は、連合軍が北京に迫ると、光緒帝と西太后が紫禁城から脱出しようとしました。しかしそれでは、戦火が拡大するだけであり、講和も遅れるとの判断から、各地の総督が反対しました。そして、支名人は、我が軍による事態の収拾に期待しました。
 我が軍の目的は、外国公使からの救出と義和団事件の平定であり、皇帝らに危害を加える意志のないことを確認していた李鴻章の腹心などは「日本軍は宮城を護衛するだろう。ロシア軍は残虐なので、日本軍だけが信頼するにたりる」と主張しました。

 実際に、北京攻略後、我が軍は連合軍の各司令官会議の決定通り、紫禁城の各門を守備しました。それが支那にとって幸運でした。

 当初、城内にはまだ二千名の宮女、千人の宦官、そして清國兵が立てこもっていました。これに対して、各國軍は攻撃を主張しました。我が軍だけが反対しました。

 ウォルシュ中佐率いるドイツ軍などは皇帝から北京を焼き払うよう命じられており、紫禁城の北に隣接する景山に大砲を据えて、同城に対しての砲撃態勢に入りました。そのウォルシュを説得して攻撃を猶予させ、清國軍を説き伏せて無事開場させたのが我が軍です。

 紫禁城は我が軍により、略奪どころか城壁に弾痕一つ受けることなく完全に守られました。

 大東亜戦争後、八路軍に敗れた蒋介石は、紫禁城の放宝物台湾に持って行ってしまいました。でも、この支那人が世界に誇る故宮の宝物は、あのとき我が軍がいなかったら、今は存在していないでしょう(欧米に略奪されて)。

 この時期の歴史を知ることは、我が國國民にとって必須です。この後、ロシアが満州に居座って、ひいてはそれが日露戦争になるのですから。平和平和と、憲法に平和と書いたら平和が訪れると思っている、ピンボケな國民がたくさんいますが。白人というのは野蛮人だと言うことをしっかりと認識しないと・・・。支那人はうそつきだと言うことを認識しないと・・・・・。外交などできません。

 支那の歴史を正しく知ることも大切です。漢民族があの地域を支配している時、必ず人民が不幸になります。それを元や清の異民族が正していくという繰り返しです。支那の地域の(あの地域が國家であった歴史がない)長い歴史の中で支那人が一番幸せだったのは、清の乾隆帝あたりだったと思っています。



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このページは、宝徳 健が2013年6月26日 04:48に書いたブログ記事です。

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